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井上源三郎資料館は、新選組の六番隊組長井上源三郎の生家です。

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井上泰助

井上泰助記
                          夢酔藤山 作
【目次】
 第一話 幕末春暁
 第二話 有為転変
 第三話 斎日因果
 第四話 衆道横行
 第五話 戊辰魍魎
 第六話 多摩瓦解
 最終話 捲土重来

幕末春暁



 嘉永七年(一八五四)は一ヶ月を残して改元された。たった一か月足らずの安政元年は、瞬く間に安政二年となった。
この年、千人同心に西洋式軍制改革を推進していた幕府韮山代官・江川太郎左衛門英龍が五五歳で没した。しかし江川太郎左衛門の蒔いた種は着実に幕府に根づいた。老中・阿部正弘は大名・旗本に至るまで洋式銃陣の修行を命じ、芝新銭座大小砲習練場を組織させた。これにより、千人同心も六月二九日より西洋伝銃陣稽古を開始する。
 時代は、大きく変わろうとした。
 千人同心石坂組世話役・井上松五郎もまた、その例外ではない。
千人同心である以上、銃の操作を学ぶことは、これからの世の必須であった。そのうえで、なお、徹して剣技を極めようと、松五郎は精進した。
 松五郎の流派は、天然理心流近藤周助道場である。
この年、井上松五郎は中極位目録を納めた。西洋式軍制改革が進められても、個人的な技能を支えたのは、やはり剣であった。
「もののふである限りは太刀を捨てられない」
 飄々とした仕草が人から好かれた松五郎であったが、特にこの時期、不思議と人が変わったかのように、表情には嶮しさが滲み出ていた。この嶮しさを叱る近藤周助さえも、対峙すれば、背筋に冷や汗を隠せなかった。
 そんな兄に発憤されたのが、弟・源三郎である。彼もまた、ひたすら剣に、その情熱を傾けた。井上兄弟に牽引されるように、武州日野の男たちも、進んで木剣を握り締めた。彼らが示すその鬼気迫る修練は、あたかも時代の分岐点で藻掻く、その当時の日本人そのものと云えよう。
 その足掻きのなかで、松五郎は子を得た。
既に長男を設けていたから、周囲も然程に気にも留めなかったが、この子は、幼くして幕末を肌身に刻む貴重な人生を過ごす運命を負う。
 子どもの名は、井上泰助という。

安政四年、老中・阿部正弘が没すると、時代が大きくうねり出した。大老に就任した井伊直弼は、弾圧による幕政改革に踏み切ったのである。世にこれを、〈安政の大獄〉という。
 新しい風と復古の波が繰り返した。
小さく小刻みなその波は、天保・弘化・嘉永と、年号を改める毎に、広く深くうねり出した。
当時の井上松五郎は、その波に漂う小舟のような焦燥と不安を強く噛み締めていた。

 井上松五郎に転機が訪れたのは、万延元年(一八六〇)三月二九日の吉事である。
この日、近藤周助の養子・島崎勇が祝言を迎えた。相手は松井つねという女性である。
島崎勇は松五郎よりも六歳若いが、何やら実年齢よりも老けた、不思議な貫禄のある男だった。弟弟子ではあったが、島崎勇の剛毅な性格を、松五郎は好意的に感じていた。
西洋からの新し物などに浮つくような、巷の旗本連中よりも、よほど島崎勇の方が武士らしい。
それほどまでに、松五郎は勇に惚れ込んでいた。そして、この祝言により、勇はいよいよ近藤周助の跡養子となるのだ。やがては天然理心流宗家を継ぐことになる。
(この男を立ててやらねば、男が廃る)
 松五郎から憑き物が落ちたかのように、嶮しさが消えた。物腰が飄々と戻ったのは、己の立てるべき弟弟子に
「もののふとはかくあるべし」
という気概を感じたからだろうか。
妙な心持ちが淡雪の如く溶けて消えれば、あとには温厚で物腰柔らかい、素の松五郎が残るだけだ。
 周助曰く。
「嶮しさを消したことにより、松五郎は更に強くなった」
事実、当時の松五郎には寸分の隙もなく、木剣を撃ち込むことは困難だった。対峙した誰もが、達人に睨まれるが如し、と恐れたのである。
 さて。
 勇の婚礼は、市ヶ谷の試衛館道場で行われた。江戸では〈桜田門外の変〉の余燼が燻り、何処か焦臭い気配が漂っていた。しかし、天然理心流近藤周助門下としては、この吉日に、井伊大老暗殺の血腥い話など関わりなどない。
「松五郎さん、ご無沙汰です」
 そういって酌を勧めたのは、一九歳の沖田総司だ。
「いつ見ても、君が一番ここで強いとは思えないな」
 松五郎はそう云って盃を差し出した。
「兄弟子より強い者など、ここにはおりません。わたしはまだまだ未熟者ですから」
「この世には天賦という言葉がある。努力しても報われない者と、努力ひとつで昇華する者と。君は昇華する人間だよ」
「……そんな」
「これは、世辞ではないんだ。所詮、わたしは千人同心という御公儀の務めに殉ずる定めの男。だが君は、剣ひとつで、新しい門主を支えることが出来る人間だ。天然理心流宗家は、多摩では決して軽くない金看板だよ。わかるな?」
「はい」
「君が、勇を助けてやるんだぞ」
「承知しました。」
 沖田総司という男もまた、食えない男だった。童のような様相とは裏腹に、剣を握れば比類なき強さを発揮する。まさに鬼神と評するのが相応しい。
その天分の才を、井上松五郎はこよなく評価していた。
「そうそう、姉上は息災でしょうか。久しく会っておりませんが」
「ああ、〈みつ〉さん。元気だよ、今度、出稽古のときがあったら、林太郎のところに寄っていきたまえ」
「はい」
 井上松五郎は久しく忘れていた笑いを、このとき零していた。
「松五郎さん、あとで、お手合わせ願いませんか」
 ぶっきらぼうな口調の若者は、石田村のバラ餓鬼で通っていた土方歳三だった。我流で木剣を振り回していた彼は、去年の今頃、正式に天然理心流道場へ入門した。引っ張ったのは島崎勇だ。いや、厳密にいえば、松五郎が頼んだというべきか。おかげでこの無礼なバラ餓鬼も、少しは礼儀というものが身に付いたようだ。
「土方さん、ずるいですよ。わたしが先にお願いしたいな」
 沖田総司が拗ねるような口調で訴えた。
「あとでまとめて相手してやる。お前等、ちっとは勇を祝ってやれよ。見てみな、あの不似合いな緊張ぶりをよ」
 松五郎は島崎勇の紅潮した顔を促した。となりの花嫁の方が、よほど性根の座った涼しい顔をしているではないか。
 花嫁・松井つねは、清水家の家臣・松井八十五郎の長女で、一橋家の祐筆を勤めたこともあるという。ご立派な経歴だが、つねは齢二四。晩婚である。醜女とは云わぬが、たぶん美貌の持ち主とも云い難い。だから婚期を逸しかねた女性であった。
「あのくらい腹の太い女でなけりゃあ、勝っちゃんの女房は務まるまいよ」
 土方歳三は島崎勇の旧名・宮川勝五郎の頃からの悪戯仲間である。だから、つい私的にその名を呼ぶ癖が抜けない。
 ここに居並ぶ土方・沖田そして島崎勇(のちの近藤勇)の三人が、僅か三年ののちに、京都で一旗揚げることになろうとは、このとき誰が想像しただろうか

 この年五月、井上松五郎は天然理心流免許を修めた。心の余裕が生まれたからこその、免許皆伝だ。剣客・井上松五郎の名声は、この年八月に津田真之助が刊行した『近世万延武術英名録』に
「日野宿北原天然理心流指南井上松五郎」
の名で記されている。
同じ千人同心系統の
「甲州道中日野宿 日野信太郎」
の名もここに記されており、また、入門して日が浅い
「武州日野宿 土方歳蔵」
の名も刻まれている。これは紛れもない、土方歳三のことだ。
 
 松五郎の免許修得を日野の有志は喝采した。
 なかでも名主・佐藤彦五郎は大いに喜び、角樽を持参して自分で飲みだす始末だった。
「おっ母に叱られるぞ」
「いいんだよ。めでてえこっちゃ」
 結局、勝手口を開けっぴろげにして、二人で茶碗酒を飲み出した。
「宗家は立派な嫁を貰った。これで天然理心流も安泰だな」
 松五郎の免許も嬉しいが、こちらも嬉しいのだ。佐藤彦五郎とは、情の厚い男だった。
日野には近藤周助門下が多い。
多くは富農層の者たちだが、もともと多摩は天領で、徳川への信奉心が厚い。百姓でも剣術をするのは、別して天下を乱す意味ではなく、いざとなれば将軍のために働く気概を抱くがゆえだった。
結局、足腰立たなくなったのは彦五郎だ。松五郎はこれを背負って佐藤家に赴いた。ここは大勢の出入りがある。
「松五郎さん」
「やあ、みつさん」
 井上分家の嫁・みつは、沖田総司の姉だ。
「勝ちゃんのお嫁さんは綺麗でしたか?」
「たいした嫁御です」
「そう、よかった」
 佐藤家の若衆が彦五郎を預かり、屋敷に連れていった。
「総司は、悪戯などしていませんでしたか?」
「姉思いの弟でしたよ」
「なら、いいのですが」
 みつは出稽古に来たとき以外の弟の日常を知らない。心配は常からのものである。
「これはこれは、おめでとう松五郎さん」
「ご無沙汰しています」
 用向きで訪れていた小野路村の小島鹿之助だ。
「近藤宗家も忙しいだろうね」
「さあ、どうでしょう」
「そろそろ代変わりということかな」
 小島鹿之助は近いうちに近藤宗家襲名の儀があるだろうと呟いた。多摩の富農は近藤門下だ。気にならぬわけがない。
 バシッ。
 鋭い音がした。彦五郎の屋敷には長屋門があり、そこが出稽古場となっている。その庭先で、泰助が天然理心流の太い木刀を構えていた。その前に尻餅をついていたのは、兄・定治郎である。
「どうしたのだ?」
 松五郎が鋭い口調で質した。
「兄上が素振りの邪魔をするのです。いきなり振り掛ってきたから、木剣を払いました」
 成る程、定治郎からやや離れたところに、細身の木刀が転がっている。泰助は二歳から剣術を習い始め、近頃では木刀を握るほどになっていた。その上達には目を見張るものがある。
「しかし、試合でないのに、もし怪我でもしたら何とするか。二人とも、今夜は飯抜きだぞ」
 松五郎は容赦なく断じた。
「厳しくはないか?」
 小島鹿之助が質した。
「躾とけじめは、早すぎて困るものではござりませぬ」
 そう云われてしまえば、もう誰も云えなくなる。気の毒だなと思うのは大人ばかりで、これが当たり前と思っている子供たちにとっては、些かの苦でもなかった。



 文久元年(一八六一)四月一二日、土方歳三と沖田総司は小野路の橋本道助邸まで出稽古に赴いた。このとき小島鹿之助もおり、話題は井上松五郎の躾論に及んだ。
「凄いじゃないですか。泰助は天才かも知れませんね」
 沖田総司は目を輝かせた。
「でも、躾が厳しいと、儂は思うのだがね」
 小島鹿之助はその場を目の当たりにした。だから、そう感じるのだ。躾は大事だが、行き過ぎはいけないのではないかと。
「人の家のことですから、余り云うのは、どんなかね」
 土方歳三は他人事のように漏らした。
 橋本道助も小島鹿之助も、心配なのは子供たちが萎縮してないかという懸念だった。ようやく五歳にもなろうという泰助が可哀想だとも呟いた。
「松五郎さんだって、分別ある人です。手前ぇの子は可愛いでしょうに」
「やけに庇うな、歳」
「庇っちゃあいませんよ。松五郎さんのすることに、間違いはねぇのだと、そう云ってるんです」
「そりゃあ、まあ、そうだけどよう」
 たしかに、歳三の云い様はもっともだ。
「ねえねえ、土方さん。小野路の帰りに日野へ行きましょうよ。わたしも、泰助の剣筋がぜひに見たいなあ」
「総司、お前お気楽でいいな」
「土方さんだって、他人事でしょ」
「そりゃあ、まあ」
 とにかく人の家の躾に口出しするのは、余計なお世話である。
「だから、泰助の剣筋を見て、いいか悪いか判断すればいいじゃないですか」
「剣筋で、んなもん分かるのか?」
「分かりますとも。ビクビクしている子供の剣は、色々と小さいんですよ」
 嬉々とした表情で沖田は笑った。
「そういう例えが、ちっとも分からん」
 小島鹿之助は首を傾げた。
「ここは塾頭殿にお任せしようか。のう、鹿之助殿」
 橋本道助は沖田の案に乗る気だ。
「で、泰助がビクビクしてたら、どうなんだよ?」
「父親が恐くて顔色を伺っているんです。躾を柔らかくするよう、松五郎さんにお話しするということで」
「誰が?」
「それは大人の役目ですよ。道助さんと鹿之助さんしかいませんね」
「厭な役目だな」
「泰助を見れば、分かりますから」
 この日、橋本家で一泊した土方・沖田は、翌朝、橋本道助とともに日野へ出向いた。佐藤彦五郎の道場前で、井上泰助が木剣を素振りしていた。ブンと、空気を震わせる、力強い素振りだ。これが五歳の剣か。
「義兄様、泰助の剣筋を見に来たよ」
 土方はそう云って、玄関前にどっかと腰を下ろした。ちらと見ると、長屋門道場の中から、松五郎の威勢が聞こえてくる。
「小野路でお節介に巻き込まれたのか?」
 彦五郎が小声で呟いた。
「お節介をしたくもなるよ、鹿之助さんからああも聞かされりゃあな」
「とにかく面倒は起こすなよ」
 そんなやりとりを余所に、ニコニコとしながら、沖田総司は松五郎のところへ挨拶に参じた。
「泰助、借りますね」
 邪気もない笑顔で、いきなり現れた沖田からの唐突な申し入れだ。呆気に取られた松五郎は、頷くしかない。
「泰助、ちょっと構えてくれない?」
 五歳とはいえ、試衛館塾頭の沖田くらいは知っている。子供らしい驚きの表情で、ぎこちなく頭を下げた。
 道場から出てきた松五郎は
「なんだ、歳もいたのか」
「ご無沙汰しています」
「総司の奴、どういう風の吹き回しだ?」
「風の噂を確かめに来たんです」
「噂だって?」
「天才剣士の噂を」
「なんだそりゃ。泰助は天才じゃないぞ」
「それを天才塾頭が確かめるそうな」
 馬鹿馬鹿しいと、松五郎は失笑した。
「さあ、泰助。構えて!」
 沖田に云われるまま、泰助は木刀を前に突き出した。
「平晴眼、構え」
 沖田の掛け声に、泰助はきょとんとした。
「すまん、総司。泰助はまだ、技も知らないんだ。素振りだけしか教えていない」
「そうですか。なら、泰助、遠慮はいらないよ。存分に打ち掛かっておいで」
「え?」
「遠慮はいらないと云っている。君の木剣は絶対に当たらないから、思い切って打つんだ」
 沖田は素手である。
本当に打ち掛かっていいものかと、泰助はちらと父を見た。松五郎が頷くと、泰助は木剣を大きく振りかぶって
「いやああああああ!」
思い切り沖田に打ち込んだ。
木剣が空を切り、あっと泰助が振り返ると、何事もない涼しげな顔で、沖田はそこに立っていた。
「いつの間に」
「さあ、もう一回」
 今度こそと、泰助は打ち込んだ。その剣が、やはり空を切った。
「いいぞ。すごくいい。素直な剣筋だ。松五郎さん、もう泰助には、技を教えてもいいんじゃないですか」
 沖田が笑った。
「子供には早い」
 松五郎が即答した。
「それも躾ですか?」
「ん?」
「勿体ないですよ。何なら、試衛館道場に欲しいな。ねえ、土方さん」
「おい、勝手なことをいうな」
 土方が答える。
「素手の相手に疑いなく打ち込める胆力は、五歳の子供とは思えないですよ。余程、父親を信頼しているんですね」
 泰助は松五郎の了承を得て、存分に剣を振るった。顔色を伺う目ではない、立場を弁えたゆえの確認だ。こんな芸当、ビクビクした子供に出来るものではない。
「道助さん。鹿之助さんによぅくお伝え下さい。泰助のことは、他人が心配することではなさそうです」
 どういう話だと、松五郎が質した。
「実は」
 橋本道助の言葉に、松五郎はキョトンとし、つい大笑いした。成る程、人に心配される躾も考え物だ。松五郎は頷きながら
「わかった。過ぎれば毒になる。ならば、少しは甘いことも許してやらねばいかんな」
「はい」
「よし、泰助。塾頭様に技を教えて貰え」
 泰助は嬉しそうな声を挙げた。
「よろしいかな、塾頭様」
「むず痒いですね。心得ました」
 この日、沖田は基本である〈平晴眼〉の型を泰助に教えた。
「続きは父上から習いなさい」
「はい。ありがとうございました」
 結局、取り越し苦労だと、橋本道助は笑った。とてもいい結果だった。
「どうやら鹿之助殿にも余計な気苦労をかけたようだ。申し訳ないとお伝えください」
 松五郎は頭を下げた。
「じゃあ、手合わせお願いします」
「ああ、いいよ。歳もやるか?」
「俺はいいです」
「じゃあ、総司。道場へ」
「はい」
 この手合わせは、泰助の目に、鮮やかに焼き付けられた。父の強さを目の当たりにし、興奮が抑えられなかった。
「今の松五郎さんに勝てる気がしねえや」
 土方の独り言は、誰の耳にも留まらなかった。



 世の中は大きくうねり、潮の如く波打った。

文久二年(一八六二)にもなると、時代の胎動を、誰もが肌に感じ取れるようになっていた。京では尊皇攘夷に燃える志士と名乗る浪人者が、開国論者や西洋学者たち相手に、〈天誅〉と称し、白昼堂々と暗殺に明け暮れていた。
 時の帝である孝明天皇は、熱烈な攘夷論者である。
そのため公武一体で国難に立ち向かうべく、皇妹和宮親子内親王を一四代将軍徳川家茂に降嫁させた。幕府は将軍上洛を決定し、情勢不穏の京都を鎮武することを余儀なくされた。
 ここに至り、幕府は出羽庄内藩士・清河八郎の提案した
「浪士による浪士鎮圧」
を検討し、これを採用する。
一二月九日、講武所剣術教授方・松平主税助は浪士取扱に任命され、将軍上洛の市中警護役として、浪士隊を編成し入洛することとした。浪士隊の件が如何なる経緯で天然理心流試衛館近藤道場にもたらされたのかは、ここでは詮索しない。
 翌年、八王子千人同心は将軍上洛に際し、将軍供奉と宿営地の警護をするという御役目が決定した。井上松五郎もその大任を任されることとなる。
「松五郎よ、昨今の若者は京を恋みてしまうらしい。勇たちのことを、よろしく頼む」
 上洛の挨拶をするため、近藤周助を訪れた松五郎だったが、そこで初めて、近藤勇たちが浪士隊募集に加わったことを知った。しかも、そのなかには、弟の源三郎も含まれているという。
「源三郎め、ひとことも聞いていない」
「怒るな。林太郎に唆されたらしいぞ」
 沖田林太郎は井上分家でみつの夫だ。日頃から源三郎とも等しい。日野の同志で、参加を申し入れたのだという。
「では、若先生とは別の徒党で?」
「つきあいというものだ、仕方ない」
「……たのしそうだ」
「ん?」
「御公儀の役目がなけりゃあ、儂も参加したい」
「儂も三〇若ければ、参加したよ」
「儂も翁先生も、蚊帳の外ですな」
「違いない」
 大声で笑ったのち、周助は松五郎の手を両手で包んだ。
「浪士隊とはいえ、烏合の衆。何かと土地勘のない場所では、きっと困るだろう。松五郎には、奴らのよき相談相手になって貰いたいのだ」
「翁先生のお言葉なれば、是非もございません。しかし、道場は……」
「日野の彦五郎と小野路の鹿之助、ふたつの出稽古場が残って、ここは閉めよう」
「そんな」
「幕府のために一身を以て忠孝を尽くす。いまどき、そのような青臭い事を云う者がいるとは思いもせなんだ。勇も武士のはしくれ、親としては、黙って見送るしかない」
 松五郎には、言葉もなかった。
 決意した近藤勇も、それを許した近藤周助も、それぞれ互いを認めたうえでの話である。余人が口を挟むことではない。
 井上松五郎は黙って頷くしかなかった。

 二月、千人同心は東海道経由で、上洛の途に着いた。同じく浪士隊は、中仙道経由で京を目指す。
 井上松五郎が入洛したのは三月四日。二条通上ル町御幸町通竹や町達摩町の旅籠・松屋に草鞋を脱いだ。浪士隊はそれに先立つこと一〇日、二月二三日に入洛している。そして二九日には、新徳寺における清川八郎の東下宣言を受け、近藤勇等は京都残留を主張していた。
緊張が漲る浪士隊分裂の最中に、松五郎は京へ足を踏み入れたことになる。
 先に入京した近藤たちの仔細が知らぬのでは、国元へ何も知らせることが出来ない。近藤周助も多摩の連中も、さぞや気懸かりだろう。三月六日、井上松五郎は非番の時間を得て、壬生村の近藤等を訊ねた。その矢先、日野から参加した四人が、偶然、松五郎を訊ねてきた。沖田林太郎・本多新太郎・佐藤房次郎・井上源三郎である。
「いったい、浪士隊はどうなっておるのだ?お前たちは、これからどうする気なのか」
 松五郎は浪士隊の動向がさっぱり分からない。ゆえに納得が出来るよう、彼らに問い質した。
彼らが口にする内容は、とても信じ難いものだった。
清川八郎の変節もさながら、近藤勇の残留啖呵は喝采ものだ。よくもまあ、公の場で、己の主張を堂々と云ってのけたものだと、感心するやら呆れるやら、松五郎は一喜一憂させられた。
残留を決意している試衛館一門は、近藤勇以下六人。日野からの参加者は、一先ず帰国することを決めていた。
「源三郎は残れ」
「兄上」
「宗家を盛り立てる者は、一人でも多い方がいい。若先生だって助かるだろう」
「ありがとうございます」
「なに?」
「私も残りたかったのですが、三人の手前、我慢しておりました」
 呆れたものだと、松五郎は苦笑した。
「儂も残りたいものだが、千人同心は物見遊山にきたのではない。王城の地の御役目があるからな。塾頭はまだ二十歳そこそこだし、他の奴らも若い。若先生のことは、源三郎がよく面倒みてやるんだぞ」
 力も身の振りも持て余していた源三郎である。ようやく腰を下ろせる御務めが出来たのだ。松五郎はそう思う事にした。
 千人同心のなかには、日野の者で天然理心流門下の土方勇太郎という者もいた。これは土方歳三に歳が近く、旧知でありながら、同姓でも縁者ではない。しかし入門の時期が同じということもあり、歳三とは親密な関係であった。ときとして松五郎は、この土方勇太郎を伴って壬生を訪れては、近藤勇たちを喜ばせた。
 屈託なく親密に迎えてくれる近藤たちの内情は、実は複雑極まりない。
その渦中にいたのは、水戸浪士・芹沢鴨という男だ。井上松五郎も、幾度となく芹沢鴨と顔を合わせたことがある。その眼力には、〈力〉そのものが漲り、人を斬ることに錬磨するその腕前も目の当たりにした。
この芹沢派と近藤派が複雑な関係だとは、さすがの松五郎もこのときは気づかなかった。
 千人同心の京都大坂に渡る活動は、この年の六月半ばで終わる。
六月一〇日、近藤勇等は松五郎を訪れ、別れの酒宴を行った。松五郎はこのことに感激し、ひとり一人の手を取って
「御務めに励んで候や」
と挨拶した。
天然理心流という多摩の無名剣術が、王城の地で花開かんことを、心から願った。
かくして井上松五郎は、六月一六日、帰国の途に就いた。行きと同じ東海道を、ゆるゆると進んだ。
江戸到着は七月二日、その足で近藤周助を訪ね、委細を報告した。
「国家のために励んでくれれば、申し分ない」
 近藤周助はそれのみ呟き、あとは涙声で言葉にならなかった。

 この年八月一八日、禁門の政変が勃発し、壬生浪士隊は会津藩の一員としてこれに参加し、抜群の活躍を果たした。
このときの活躍が認められ、会津藩主・松平容保より〈新選組〉の隊名が下された。
近藤勇は隊規の厳守を以て、一丸となる働きに殉じようと務めた。そして九月一八日、芹沢鴨を粛正し、新選組を一枚岩の鉄壁な組織とした。

有為転変



 千人同心は、将軍警護で上洛したのちも、しばしば歴史の表舞台にその姿を現す。井上松五郎は、その主だった動員に参加した。
 そして新選組もまた、近藤勇のもと、一致団結して京の治安維持に活躍した。
とはいうものの、会津藩預という肩書以外は、およそ実態のない器に過ぎない。成果を挙げることで正式に認められることこそ、当時の新選組が望んだすべてだった。
 世情が天狗党の乱で騒然とするなか、京では過激派浪士が大事を画策していた。
元治元年(一八六四)六月五日。
祇園囃子が風に乗る、蒸し暑く長い夜のことである。
「ご上意でござる」
 河原町三条の旅籠・池田屋へ新選組が踏み入ったのは亥の刻(約午後一〇時)。尊王攘夷派の志士たちが京都大火や天皇拉致を企てていたため、それを阻止したという。この功績により新選組は脚光を浴びることとなる。
近藤勇が江戸へ一時帰国したのは、この年の九月五日のことである。表向きは色々とあるが、ようは京都の市中警護に必要な人材募集のためというのが、東下の理由だ。
「兵は東国に限り候」
というのが近藤の持論である。
既に藤堂平助を先発させ、文武の才人で知られる伊東大蔵(のちの甲子太郎)の勧誘を行っていた。
小島鹿之助や橋本道助といった多摩の後援者たちは、立身した近藤に会いに来た。彼らは、風のうわさで聞く〈池田屋事件〉のことを知りたがった。後援者たちを失望させられないと、多少話を盛りながらも、戦闘の様を近藤は語った。
「総司はどうした。倒れたと聞くぞ」
沖田総司が喀血したのだという話を、彼らは信じていた。このとき、沖田が労咳であることは公然ではない。さしたることはと、近藤は言葉を濁らせるだけだった。
九月三〇日、近藤は主立った勧誘を終えたので、日野へ赴いた。佐藤彦五郎宅には小島鹿之助・橋本道助も駆けつけた。江戸から離れれば、ようやく近藤も装う体面から解放される。そのことを思い図り、彦五郎は離れに近藤を迎え入れた。ここなら人目にも触れることはない。
雑談していると、井上松五郎がやってきた。
「立派なものですな、宗家殿」
「松五郎さんまで、からかわないで下さい」
近藤の表情は、以前のままだ。
しかし、多くの修羅場を駆け抜けてきた男は、知らず、知らず、身の内に染み込むものが多い。ましてや人の上に立ち、要人とも渡り合えば、自然と貫禄がつく。このとき、松五郎は近藤勇に、ひとつの頼み事をした。
「うちの泰助を、京へ連れて行ってくれないか」
 突然の申し出だ。
郷里からの人材登用は、人間関係を損なうため、既にお断りのところである。近藤・土方の立場もあるし、隊士への示しもあった。
 それでも、松五郎は食い下がった。こんなことは初めてだった。
「ちょっと待ってください。泰助は、まだ子供ですぞ」
「子供だからだ」
「どういうことですか」
「刀持ちでも何でもいい、雑用でも構わぬ。あいつには、田舎で燻らせたくないのだ。わかるだろう、源三郎は舎弟ゆえに窮屈な暮らしをしてきた。泰助は次男、生きる道は自分で見つけるしかない」
 たしかに、泰助は子供ながら剣筋がいいと、彦五郎も口添えした。それだけに家を継ぐでもなく、身を持て余す将来を、案じてやまぬと松五郎は説いた。
「でも、まだ子供。早すぎませぬか」
「生きる道を定めるのに、早すぎることはない。家を継げぬ者は、自分の腕しか頼るものはない。だから、剣しかないんだ」
「それは、そうですが」
「泰助はいい剣筋だ。このまま多摩に埋めるのが勿体ない。王城の地で、武士らしい生き方をさせてやりたい」
「……」
「近藤局長、どうか泰助に、剣ひとつの生き方を教えて欲しい。どうか、立派な剣客にしてやってくれ」
 困った。
 近藤は三人をみた。三人とも、複雑そうな表情だ。
「局長の太刀持ちならば、私的な採用にならんか?」
 佐藤彦五郎が呟いた。方便だが、一応の理屈である。
 結局、この哀願に近藤勇は折れた。私的に太刀持ちを拾ったという建前で、泰助の入隊が決まった。
夕方、紅潮した泰助が佐藤家を訊ね、幾度となく近藤に御礼を申し述べた。
「兄弟子は、実子の躾けがよろしいですな」
「躾けなど、誰のためでもない、本人のためであるゆえ」
「畏れ入りました」
 江戸での勧誘で得た新規隊員の名簿は、和田倉の会津藩邸へ丁重に報告された。そのなかに井上泰助の名はない。本当に、私的な側務めのためだし、何より子供を採用しても会津藩は許してくれまい。それゆえのことだった。
 一〇月一五日。近藤一向は江戸を発った。
井上泰助は近藤の側にずっと従っていた。近藤とともに江戸にきた永倉新八も、井上松五郎知己の者だし、今より小さい泰助を知っている。
「あの坊主が大きくなった。父親が立派だと、子は大変だな」
 永倉はそういって、笑った。
このとき井上泰助、齢一〇歳である。

近藤勇。
井上泰助にとっては、幼い頃からの知己の一人に過ぎない。江戸で父から引き渡されたときも、昔馴染みの、ただのやさしいおじさんだった。しかし、ひとたび公の場に立てば、会津藩御用預の金看板を背負う、仁王の如き威圧感を放った。
「太刀持ちとは、ただ刀を持っていればいいと思うなかれ」
京で泰助が最初に学んだのは、そのことだった。
太刀持ちの仕事は近藤の近辺を世話だけでなく、取次や受取なども行う。この役目を、のちに新選組では〈両長召抱人〉という役職で呼んだ。近藤だけではなく、土方歳三の太刀持ちも含むから、両長なのだ。ただ、泰助が上洛したとき、まだこの呼称は定まっていない。新選組の職制として〈両長召抱人〉が設置されたとき、ここに属したのは、一七歳以下の男子だったとされる。将来の幹部候補生育成場という意味合いもあったのだろう。
「やあ、泰助くん。大きくなったね」
 沖田総司の顔はよく覚えている。痩せたように感じるのは、気のせいではない。
「沖田君、公私の区別を教えている。私語は慎みたまえ」
 近藤勇は屯所にあって、泰助に対しては新参者という扱いで厳しく接した。これが、働くということなのだ。
まるで大名家に仕官しているようだと、泰助は思った。そして、それは間違いではない。新選組は厳しい掟で規律を重んじ、上に立つ者ほど己を律して、局長を大名家のように敬った。
「歳さん、ちょっと」
泰助が近藤の小姓になったことは、井上源三郎にはすぐに伝わらなかった。泰助の立場を重んじ、一介の新参者の立場で周囲が接する空気を作るためだった。これは、土方歳三の発案である。
「泰助はどうだ。使い物になるのか」
「源さんの気持もわかるけど、泰助のためを思うなら、身内という接し方を控えた方がいい。源さんはそういうの、不器用だから」
「一存か?」
「松五郎さんなら、きっとそうするだろうと、勝手に考えた。違いますか?」
たしかに、松五郎は公私のけじめに厳しいから、きっとこうするだろう。そうだ、そうなのだ。
「身内がいることは、子供にとってかなり心強いのだ。でも、そこに甘えも生まれる。どうだろう、ここは近藤さんに全てを任せてくれまいか?」
 土方歳三の云い分はもっともだ。
 井上源三郎は得心した。身内の参加で甘えていたのは、自分だったと、反省の弁すら洩らした。源三郎は、そういう人のよさが滲み出る男なのだ。
泰助は近藤の近くにあって、新選組とはどういう集団なのだということを、静かに理解していった。同輩の受けがよかったのは、縁故というだけではない。幼少から叩き込まれた礼儀作法と、何事にも真剣な姿勢、それに我慢強さによるものだ。
半年も経たぬ間に、井上泰助は
「新選組になくてはならぬ一人」
として、皆々に認められた。
井上源三郎が気兼ねなく顔を合わせることが出来たのも、それほどの頃合いだっただろうか。その対面は、叔父甥のものではなく、あくまでも、隊内の先輩後輩という厳しいものだった。
人には建前というものがある。
この建前を通じて、叔父甥の感情を満たすことを、泰助は学んだ。
とかく現代人に欠けている〈順応力〉に長けていたのが、この時代の人間の強みだ。泰助が生まれた頃、世の中は安政の大獄前夜で右往左往し、西洋の知識を極めようとする者も稀だった。洋式銃や大砲調練もやっと普及しようとしていたし、数年後の咸臨丸太平洋横断は日本人の快挙だ。
とにかく、当時の日本人は、無学の中からあらゆる物を吸収し、実用出来る形に転用できる能力を持っていた。多摩の片隅にいた連中が、いまは王城の治安を預かっているのだ。三年前まで、誰がこのようなことを想像しただろうか。その思いも寄らぬ現実は、必然であった。だからこそ、その渦中に呑まれぬよう、新選組の誰もが流れに逆らうことなく、剣だけでなく銃も学び大砲も学んだ。
新選組だけではない。
誰もが命懸けで、世の流れにしがみついていた。
そういう信念を抱くからには、たとえ子供であろうとも、半年足らずで泰助が見違えるようになるのは道理である。



元治二年(一八六五)二月二二日。
総長・山南敬助が局を脱する事件が生じた。大人の事情は知る由ないが、泰助にも、これが一大事であることくらいは理解できた。

一、局ヲ脱スルヲ不許

これは新選組の定め書きとされる〈局中法度書〉の一文にあるもので、烏合の衆を規律で縛ることにより組織を保つ、重要な掟だ。
その掟を制定する際、ともに知恵を絞った試衛館以来の仲間が、自ら脱した。このことは、由々しき意味を明らかにしてしまう。
井上泰助は幼少より、山南敬助を知っていた。沖田総司のように、しばしば出稽古に来てくれた、気さくで学識のある人という印象が深い。ただ、京にきてからは、会釈だけで言葉を交わしたことがなかった。
「総司が追っ手となりたまえ」
近藤勇が命じた。
宛先など分からないが、東下だろうと予測し、もし大津で見つけられなければ、京へ引き返せとも云い添えた。発見に及ばぬ際は見逃せとも聞こえる。近藤も、立場と心情の板挟みなのだ。沖田総司はそれを察した。
このときの近藤勇は、平静を構えながらも、微妙に平素と違う所作を示した。
「なあ、泰助は、どれくらい山南さんのことを覚えている?」
傍らの泰助に近藤が私的な会話を投げたのは、このときが初めてだった。ほかに誰もいないからだろうが、それでも屯所にある限りは、終日公務にある近藤である。めずらしいことだった。
「皆さんが上洛する前、局長と総長が小野路へ行かれたときがありました」
「ああ、あったな。もう、二年になるか」
「その帰りに、総長は……」
「ここだけの話だ。山南さんでいいよ」
「はい。そのとき山南さんは、日野に寄って下さいました。そのときお言葉を頂きました」
「ほう、どのようなことを仰っていたか」
「父のように、勤勉な人になれと」
ううむと、近藤は腕組みした。
たしかにあの出稽古のとき、近藤は先に江戸へ戻り、山南は内々に日野に廻った。これは近藤の指図だったから、間違いない。そうか、あのときかと、近藤は二度呟いた。
「松五郎さんにも、多摩の皆々にも、山南さんのことは伝えなければいけないな。辛いことだが……」
何かを云いかけて、近藤は黙り込んだ。
無事に逃げ切れたらいいのにな、とでも云いたかったのか。が、仮にもここでは、断じて公にできない言葉だった。
山南敬助。
結局、大津で、沖田総司によって連れ戻された。
翌二三日、総長・山南敬助は法度に叛いた科で切腹する。介錯したのは沖田総司だった。この現場に井上泰助は立ち会っていない。しかし、切腹の場となった前川邸屯所の格子窓に、縋りつきながら大声で泣く女性の姿を遠目でみた。その女性と山南敬助との関係を、少年の身である泰助が想像することは難い。
二四日、光縁寺において、山南敬助の法要が営まれた。
土地の人が沿道から山南を見送った。これほど多くの人に慕われた山南敬助が、なぜ掟に叛いてまで脱走を試み、死ななければいけなかったのか。その答えは、謎である。
「辛いものだな」
 見送る泰助に向け、井上源三郎がぼそりと呟いた。私的な言葉は、新選組に属して片手ほどしかない。それほどけじめを重んじた叔父甥ではあったが、このときばかりは、声を上げずにいられなかった。
「叔父さん」
「ん?」
「京というところは、命が、簡単に消えるのですね」
「そうだな」
「すぐにその人のことすら忘れて、また次の人が死んでしまう」
「それが、京だよ」
「日野では、もっと厳かに、死と向き合っていた気がします」
「まあ、日野で死ぬのは、たいがいが長老くらいだからな。みんな、大事に受け止められるのだよ。そこが京との違いだ。ここでは誰もが、いつ死ぬか、わからない」
「父はなぜ、こんな恐ろしいところに、私を預けたのでしょう」
「これが、侍の生き方なのだ。京もどこも、場所なんて関係ない。偶々ここが京だった、それだけだ」
 ときおり泰助は、年齢に相応しくない、大人びた表情をすることがある。今日もそうだった。
「最近になって、やっと、新選組が厳しいところだなって、判ってきた気がします」
「泰助は偉いな」
「半年も経つのに、なんか、鈍いですよね」
「そんなことはない。大人だって、毎日が恐いんだよ。泰助は立派だ」
源三郎はふっと笑い、泰助の頭を二度叩いて、去っていった。

総長・山南敬助の死後、新選組の環境は大きく変わった。最たるものは、屯所の移転だろう。
三月一〇日。慣れ親しんだ壬生より、新選組は屯所を変えた。公務の負担と隊士の増加もさながら、前川・八木両家への居候では手狭になったのが理由だった。
 新たに屯所としたのは、西本願寺の北集会所と太鼓楼とされる。
が、我が物顔で新選組隊士が境内を闊歩する様に、寺側も檀家も信徒も、ほとほと困ったことだろう。西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山として、戦国時代、石山本願寺の頃より織田信長に抵抗し毛利家と結んでいた。このときの誼はずっと生きていた。つまり、京における長州派の宗教勢力が、西本願寺なのだ。それが、よりによって、長州に敵対する新選組の屯所となってしまったのだから、いかに迷惑なことかは想像に易い。
 屯所移転を終えたのち、命令により、土方歳三は江戸へ東下した。
隊士募集のためというのが、主な理由だ。伊東甲子太郎と斎藤一も同行した。が、それとは別に、多摩の人々へ山南敬助のことをきちんと報告する必要があった。このことは近藤に代わり得る者の責務、すなわち土方しかいない。
 幕府が第二次長州征伐の出兵を千人同心へ通達するのは、この年の四月二日。八王子はこの動員で喧噪の最中にある。日野もその例に洩れないが、千人同心に属す者たちに限られていた。井上松五郎はこの渦中にあって、土方逗留を垣間見る余裕もない。
「源三郎と泰助のこと、代わりに聞いておこうか」
 佐藤彦五郎は、気を利かせた。
 その彦五郎の子・源之助は、土方歳三にとって甥にあたる。銃器の操練に長けていることから
「義兄上、京都に貰っていいですか」
 その言葉に彦五郎は満更ではなかったが
「冗談ではありません」
 彦五郎の妻・とくが猛反対した。とくは歳三の姉だが、母親代わりのような存在で、鬼の副長も、姉の前では神妙なバラ餓鬼に過ぎない。
「ちょっとは、本気でした」
「駄目です」
「帳簿とか、実務とか、新選組ではこういう能力が欲しいのです」
「うちの子は、うちにも必要な子です」
 実は源之助も、京都に行きたいという下心がある。しかし、とくの一存は、男の都合さえ押さえつけて、揺るぎもしなかった。さすがに土方は断念した。
 とまれ江戸の隊士募集は、五二名もの応募者を獲得した。
 四月二一日、駒木野において千人同心は長州出兵に先立ち、将軍・徳川家定上覧のもと、軍事調練を披露した。八王子や日野では、将軍下向という緊張感が漲っていた。些細な騒ぎも許してはいけない。役人もピリピリしていた。百姓は面倒を恐れて家の中に閉じ籠っている。農作業の滞りは仕方がない。
このとき土方は江戸府内に戻っており、将軍上覧に一切関与していない。いたところでお目見えの適わぬ新選組副長では、どうということもなかった。
四月二七日、土方一行は江戸を出立した。

 土方が江戸へ下っている最中、年号は〈慶応〉と改元された。

 西本願寺へ移って最初のこの年、近藤は泰助を伴い、旧屯所であった前川家と八木家に挨拶回りしつつ、すぐ隣の壬生寺へ赴いた。毎年四月、壬生寺で催される〈壬生大念仏狂言〉を観覧するためである。
「泰助、聞いて驚くなよ。壬生狂言に用いる衣装はな、人が死んだあと、寺に奉納されたものなのだ」
「ええと、死人の着物で?」
「生前の愛用品とかな、そういうのを奉納するんだ。狂言のときに、それが衣装として用いられるのだよ」
「変わった催しですね」
 泰助はキョトンとした。
「でも、薄気味悪いですね」
 声が気に障ったのか、振り返る者が数名いた。近藤はにこにこしながら、会釈して受け流した。
「何でも自分の考えを秤にしてはいかんのだよ。世の中には、その土地ならではの出来事があり、その土地ではそれが当然なのだ」
「はあ」
「日野の常識がここにないだろう?京に棲む以上は、京の外での常識は通用しないのだ」
「そうですね」
「儂もそのことで、毎日恥を掻いて生きている」
 謙虚な物云いだ。
 この季節の狂言は、壬生の外に〈嵯峨大念仏狂言〉と〈ゑんま堂狂言〉のふたつがある。新選組は隣の壬生寺に縁が深いので、こうして足を運んだが、残りの狂言とは縁がない。
「局長」
「ん?」
「隊士が亡くなられても、着物を壬生寺に納めないのですか?」
「我らは檀家ではないからな」
 そういうものかと、泰助は頷いた。
 あれほど壬生の人に慕われた山南敬助くらいは、着物を納めてもいいような気がする。
「総長の形見って、どうしたのでしょう」
 そういえば、山南敬助の衣類は、あの切腹以来、見かけない。
「あるべきところにあるんじゃないか?」
「あるべきところ?」
「儂は知らぬよ」
 近藤は涼しげに笑った。

斎日因果



千人同心調練将軍上覧は、かなりの評判であった。その期待が大きいほど、半農半士の千人同心にとって、大きな心労となる。彼らの多くは富裕にものを云わせて、武士の身分を金で買っただけに過ぎない。世が平穏ならば、その身分を用いて、村で大きな顔をするだけで満足できたのだ。
が。いまは動乱の世となった。
鍬を槍に変え、銃をも握り締めることとなる。命を削る矢面にさえ立たされるのだ。最後の性根が武士か百姓か、ここが大きく問われるところだ。
井上松五郎は武士である。戦国を生きた一族の末だ。槍を持ってこその武者という気概は強い。こういうときの性根は、どっしりとしていた。
その千人同心が長州征伐の一陣として、大坂に出兵したのは、慶応元年(一八六五)五月一〇日のことである。
砲術方頭(上窪田・原)同心三〇〇、長柄方頭(山本・石坂)同心一〇〇、旗指方(目付支配)同心三二。このなかに、井上松五郎がいた。千人同心は大坂内本町通り太郎左衛門町仮陣営に着陣した。
新選組は千人同心がどこへ宿を構えるのかを、既に把握していた。しかし、此度は連携する任務もない。そのため井上源三郎や土方歳三が、私的に、松五郎宛に手紙を発して、一先ずのつなぎを得ていた。
九月一四日、千人同心は京都警護が命ぜられ、一群が派遣された。このなかに松五郎がいるだろうかと、土方歳三や井上源三郎はそれとなしに付近を探った。しかしその姿がなく、知己の同心にそっと声をかけると
「松五郎さんは、床に就いてる」
ということだった。
何としたことと話題となったが、松五郎の病は、脚気だった。そのことを知った土方歳三は、近藤勇へそれとなしに伝えた。
「これは大事をとるべきだろう」
屯所で飼育している豚を送ったらどうかと、近藤は試案した。
先の五月に将軍が上洛した際、新選組は典医・松本良順より衛生指導を受けた。残飯を餌として豚を飼い、これが肥えたら隊士に食わせること。これは男所帯の改善となる、画期的な案だった。
「近々、一頭を潰すつもりだ」
 土方は即答した。
 ならばと、近藤は肉を送ろうと提案した。
「しかし、松五郎さん、豚を食うかな。食い方、分かるかな」
 調理したものを届けるべきではないかと、土方も首を傾げた。
「豚くらい食うだろ。日野でも猪とか、食わなかったか?」
「いや、多摩の連中は頭が固いからな。鳥ならまだしも、四本足にはうるさかったぞ」
「そうか、それは困ったな」
 幕末ともなれば、当時の禁忌である四本足の獣食いは、都市部でも十分に浸透していた。西洋かぶれのおかげで、牛鍋を食らう者さえいる。
「あれ、歳よ。大坂には牛鍋屋があったな」
「あるが?」
「思い切って牛鍋を送ったらどうだ」
「ならば、人を差し向けて豚を賄うべきじゃないか。近藤さん、うちの飼育したものを食って貰うことに意味があるんだろ」
「そうだけどな」
 近藤は当惑した。豚を味噌漬けにしたものを壬生菜と一緒に炒めたものは、かなりの美味だ。精がつく心地になる。
「ならば、源さんに行って貰おう。源さんが肉を炒めればいい」
「源さんが調理なんぞするか?」
「えっ、じゃあ、総司か?」
「総司だって、しねえよ」
「だれ彼しらぬ者を差し向けるのも、ちょっとな」
 そうだと、土方が手を叩いた。
「泰助にやらせたらどうだ」
「いや、駄目だよ」
「なぜ」
「泰助を武士にしてくれと、松五郎さんは俺に云ったんだ。豚肉の調理なんか命じたら、京で何を学ばせたのだと、俺が叱られるだろう。勘弁しろよ、歳。松五郎さんはな、怒ると恐いんだぜ」
 近藤は大きく頭を振った。
 これは、困った。近藤も土方も、頭を抱え込んだ。
「二人とも楽しそうですね」
 沖田総司が顔を出した。
「おいおい、どこが楽しそうに見えるんだよ」
 土方が吐き捨てた。
「外まで聞こえましたけど、わたしも源さんも、豚を炒めるくらいは出来ますよ」
「はあ?」
「出来ないなんて決めつけるのは、ちょっと心外だなあ」
「お前ぃ、いつ台所のことを覚えたんだ?」
「試衛館のときですよ」
「あ」
「二人とも、局長副長が板についちゃったから、昔の赤貧を忘れちゃったんですか?食えるものなら何でも食べた昔を、思い出して下さいよ」
「思い出した。総司、お前、俺に鼠の付け焼を食わせたことがあったな」
「ね、だから大坂に行ってきますよ」
 土方は溜息吐いた。とんだ取り越し苦労だった。
「よし、裁量は副長に任せる」
 近藤は余所行き顔で、笑った。
 脚気に豚肉がいいという知恵を二人が持っていたかは怪しいところだ。が、実際、豚肉はビタミンB1が豊富で効能はある。
 結局、豚の味噌漬けを大坂に持参したのは、沖田ではなく井上源三郎だった。
「これ、屯所で飼ってましてね。奴ら、ぽんぽん子を産むんです。残飯も片づけてくれるし、こうして太れば食えるようになる。重宝してます」
 源三郎は持ってきた肉と壬生菜を、七輪で熱した南部鉄の板で炒めて、もっさりと椀に入れた。
「網じゃなくて鉄の板で焼くのか?」
「うちの監察に吉村貫一郎という男がいるんです。南部藩の出で。こいつが都合のいい南部鉄を持っておりまして。こういう炒め方は、松本先生の教えです」
「へえ」
松五郎は恐々と、それを口にした。見守る千人同心の者たちも、獣食いということもあり、遠巻きにそれを見ていた。
「美味いな」
 松五郎が呟いた。
「薬食いというだけあって、これは身体に良さそうな気がする。ああ、不思議なものだ」
「大坂には牛鍋屋もあると聞きました。美味いと聞いています。もう少ししたら、皆さんで食ってきたらどうでしょう」
「そうだな。そうしよう。源三郎がまともなことを云うのも初めて聞いたが、禁忌も程々にしなきゃあな」
 松五郎は、ぼそりと呟いた。
松五郎が牛鍋屋に行ったかどうかは定かでない。が、暫くのちに、松五郎は床を出て日常に復帰した。



 この九月中、千人同心は幕府の軍制改めにより、陸軍奉行支配に変わる。それに伴い、名称も〈千人隊〉と変更された。れっきとした軍隊として組込まれたのだ。片足を百姓としている者には厳しい境遇となるのだが、松五郎にしてみれば、務める内容は大した違いなどない。一〇月七日、千人隊は一〇日程の伏見警護の出張を行った。これは将軍・徳川家定が入京するためのものだ。本復した松五郎はこれに参加した。
松五郎の非番の日を確かめると、近藤勇はお忍びと称し、井上源三郎と泰助を伴い伏見へと赴いた。身形も浪人風に装い、誰がみても新選組と悟られぬ工夫をした。会合は、料亭の魚三桜で行われた。
「泰助までお連れになるとは」
「驚いたか?」
「思いも寄らぬこと。宗家のお心遣い、まことに忝なく存ずる」
 心なしか痩せた面持ちの松五郎だが、病的な様子はない。近藤は気さくに手を取り、日頃からの労苦に感謝を延べた。事実、将軍上洛ともなれば、京都市中警護の人出は不足する。こうして兄弟子が来たからには、鬼に金棒だと、近藤は笑った。
「源三郎は、相変わらず悪さをしておるまいか?」
「またまた、やめて下さいよ」
 源三郎は苦笑いした。
「源さんがいるから、安心しております」
 近藤がすかさず答えた。
「総司は?あいつが病だと、どこかで聞いたのだ」
「悪い噂です」
 沖田総司の労咳が明確になったのは、夏に行った松本良順の健診によるものだ。しかし、この事実は、本人にも知らさず、近藤・土方のみの胸に閉まっていた。
「兄上も御苦労です。国許は、如何でしょうか」
 源三郎は酌をしながら、話題を変えた。
多摩のことは知りたいことだと、近藤も相槌を打った。
「あまりいいことではありませんが」
天狗党の動員騒動からこの方、多摩では小さな打ち壊しが続いている。とにかく景気が悪いのだと、松五郎は呟いた。
「酒が不味くなるな。よそう、もっといい話があればいいのに。そうだ、そちらの話も知りたい。泰助、お前はどうか?」
 松五郎は、心なしか精悍になった息子に質した。まだ酒の味も知らぬ泰助は、好きなだけ食えという近藤の言葉に甘えて、山盛りの白飯を頬張っていた。
「西本願寺に来てからは、広い境内で沖田先生に稽古をつけて貰っています」
「ほう、総司の手ほどきか。懐かしいな。お前、五歳のときに技を習ったのだぞ」
「覚えておりません」
「当たり前だ。覚えていたら薄気味悪い」
 一同は大笑いした。
「世が世なら、あれは試衛館の塾頭だ。直々のご指導なんて機会は滅多にない、うんと学んでおけ」
「はい」
「お前が達者で、父は嬉しい。帰ったらな、日野のみんなにも知らせておこう」
 松五郎は嬉しそうに笑った。
「そのうち泰助も、市中警護に出られるときが来るだろう。そのときは存分に働いて、もっとみんなを安心させてやろうな」
 近藤の言葉は温かかった。
 井上泰助は久しぶりに再会した父に、少しでも立派になったことを褒めて貰い、嬉しさを隠せなかった。征長には新選組も動員される筈だ。そのときは美酒を傾けるのが楽しみだと、近藤は笑った。
 談笑は半刻少々だったが、松五郎と泰助にとっては、かけがえのない時間だった。
 帰途、近藤は泰助に云い含めた。
「今のは、お忍びだからな。いいか、歳にも総司にも、誰にもいうなよ。ばれたら、叱られるのはこちらだ」
「はい」
「お前も罰せられるからな」
「まさか、切腹ですか?」
「そうだ、切腹だ」
 笑いながら、切腹は嘘だと源三郎が割って入った。
「でもな、お忍びの意味はあるのだ。だから、こういうときは、誰にも云わざる聞かざるである。よく覚えておけよ」
 どういう意味かはわからぬが、泰助は素直に頷いた。

 一一月に入ると、幕府の長州訊問使が人選され、近藤勇もこれに随行した。
同時に長州征伐の支度が急がれ、大坂の千人隊に待機命令が下された。もう外出も容易ならぬ。井上松五郎は素振りを重ねて時を待つ日々だった。
実戦ともなれば、銃弾の飛び交うなかで、刀が如何ほどのものか。
それでも最後に自分を支えるのは、この腕しかないのだ。この頼れる腕を信じる分、松五郎は出陣を前にしながら、落ち着いた物腰でいられた。



 さて。
平隊士に田内知という男がいる。武州羽生の出身で、二年前の江戸募集に応じて新選組に参加した。この男、地味に勤めながらも、むっつりと妾を囲っていた。隊規では幹部になれば妾を持てることになっているが、平隊士は許されない。明らかな法度違反だ。他の隊士にも内緒にしているが、このことは監察の調べで明白となっている。しかし通常の職務に問題を起こした訳ではない。
「野郎は切腹にするべきだ」
土方はそう主張したが、近藤の裁量で、見て見ぬ振りとなった。このこと、本人は知る由ない。
この田内知が、市中の小さな騒ぎで、ひとりの浪人者を捕縛した。叩けば余罪もあり、これはこれで手柄には違いなかった。浪人者は斬首と決まった。
 京の罪人は、毎年師走二十日に処刑執行が為される。
これは六角獄舎の慣例で、京わらべはこの日を〈果の二十日〉と呼んで恐れた。恐れるのは、意味がある。
「罪人かて、死ぬのん、こわいやろ。そんで人をみたら、ついてきてゆうんや」
 娘たちは特に恐がった。
「いいなづけや、ついてきて」
「いもと、ついてきて」
と、道連れを求めるから、京わらべは家に引き籠もり、引き回しを見物しようとは決してしなかった。見物するのは、決まって余所者と相場が決まっていた。
 田内知は京のしきたりに疎い。
ましてや、このような暗黙の禁忌を、知る由もなかった。
 この禁忌のためか定かでないが、引き回しを見物するため辻々に群衆することを京では禁じられていた。引き回しは〈晒しもの〉という、江戸のそれとは、些か感覚に隔たりがある。江戸の引き回しは娯楽だ。対して京都のそれは
「今度生まれてくるときは真人間たれ」
という仏事にも似た臭いがあった。
 京の処刑場はふたつ、粟田口と紙屋川である。その選別の基準は特に定めがない。
この浪人者は、粟田口で処刑されることとなった。
六角獄舎を出た罪人たちは、後ろ手で縛られ裸馬に乗せられた。油小路通を真直ぐ上がり、一条戻橋で一旦馬から降ろされて、罪人たちは橋の上に座らされる。戻橋の東南詰にある花屋から仏花が置かれ、東北詰の餅屋から華束餅が与えられるのだ。
まるで仏様同然の振舞いだが、つまりはそういう意味である。
罪人たちは再び馬に乗せられて、一条通から室町通を真直ぐに下がり、十念ケ辻まで来て東西に分かれていく。東は粟田口、西は紙屋川。それぞれの刑場へと、罪人たちは別れゆくのである。
 田内知は唯一の手柄ともいえる浪人者の引き回しを見届けようと、三条橋の袂にいた。
「そういう無粋は止めろ」
と、平隊士たちは引き留めた。が、結局は一緒に見物することになった。
ぞろぞろと平服で屯所を出ていく彼らの姿を垣間見た井上泰助は、怪訝そうに、叔父である源三郎へ漏らした。
「京の禁忌を知らぬのか、馬鹿どもめ」
 源三郎はそう呟いた。
「泰助、一切関わってはならぬぞ」
いつになく嶮しい表情で、源三郎は云い聞かせた。
「なぜ?」
 物知らぬ泰助の疑問は当然だ。しかし、わかり易い説明は難しい。源三郎はただ一言だけ
「祟られる」
と呟いた。
 田内知と平隊士たちが、引き回される罪人を観たのは未刻ノ半(午後三時頃)だった。
「みぶろや」
 だれ彼の言葉に、並んで橋を渡る罪人たちの一人が、顔を上げた。それはまさしく、田内知に捕えられた浪人だ。
「お前のおかげで、この様だ。いいか、このままで済むと思うなよ。祟ってやるからな」
 浪人は明瞭な大声で、田内知に向かって叫んだ。死人の呻きに等しい響きに、一緒の平隊士たちも胆を潰した。
「だから、見物など、やめろと云ったのだ」
 そんな声も、肝を冷やし立ち竦む田内知の耳には届かない。
「帰るぞ」
 引き摺られるように屯所に戻った田内知は、気が抜けたように惚けていた。井上源三郎が見かねて近寄り、いきなり殴り倒した。これで正気を取り戻した田内知は、やがて、浪人の声を思い出し、わなわなと震え出した。
「一緒にいた奴も、他人事と思うなよ」
 源三郎の言葉が突き刺さったのだろう、彼らは俯いて黙り込んだ。
 このような恨みつらみ、新選組である以上は大なり小なり誰もが背負う宿命だ。人の命を奪うことも日常である以上、恨みに負けぬ自我が不可欠である。が、田内知にはその自覚が足りなかったのである。
 一月四日。伊東甲子太郎・永倉新八・斎藤一が酒絡みで謹慎処分という騒ぎのなか、慶応三年が明けた。この騒ぎで近藤勇の機嫌は悪く、屯所内に重い空気が漂った。景気つけに妾のもとへ行きたいと望んでいた田内知は、ぐずぐずと一〇日になって、ようやくそちらへと足を運んだ。
妾はこのとき、浮気相手をこっそりと宅に迎えていた。ここが京の女のしたたかさである。浮気相手は水戸藩に関係のある男だ。いきなり田内知が訪問してきたので
「殺そう」
と間男が呟いた。男は押入れに隠れ、妾は何食わぬ顔で田内知を迎え入れた。
「師走二十日に、嫌な思いをした」
 田内知は胸の奥に封じていた嫌な出来事を、やっとのように振り絞った。薄気味悪い出来事だったという田内知に
「果ての二十日やわ。それ、当たります」
「はあ?」
「ゆわれたもんは、つれてかれる」
 田内知はすっかり昂って、妾を押し倒すと、胸元を大きく広げて、放漫な乳房を夢中でむしゃぶりついた。無我夢中で、背後ににじり寄る男にも気がつかない。
「あっ!」
 田内知が気づいたとき、男が肩先と両足を斬りつけた。応戦しようにも、刀掛けは遠い。斬り刻まれた激痛でのたうち回る田内知を尻目に
「行くぞ」
 男と妾は手に手を取って走り去っていった。
間抜けな話だ。妾をまんまと間男に寝取られ、殺されかけて抵抗も出来ず、刀傷を負い捨て置かれたのである。武士として、これ以上の恥辱はない。
「ちくしょおおお」
 田内知は血塗れで激高し、悶え苦しんだ。
あまりの騒ぎに、これは何ごとかと、近所の百姓が覗き込んだ。
「新選組の屯所に報せよ。不審の者に斬られた。儂は新選組の者だ!」
 田内知の悲鳴に、百姓は屯所へと走った。
 このことは近藤の耳にも達した。さては斬りあい負傷かと応援が駆けつけた。しかし、監察はすべてお見通しだ。妾を囲い、その間男に斬られた無様は、正月早々不機嫌だった近藤の怒りを沸騰させた。
「あるまじき事じゃ」
 近藤は土方に処分を任せた。それは、決して許されない断罪を意味する。
 戸板で運ばれてきた田内知は、土方から叱責された。
「血止を……副長、血止を……」
「田内!局中法度を復唱せよ!」
「副長!」
「局長はご立腹である。覚えがないとは云わせぬぞ!」
 土方は鬼の形相で一喝した。
それは怪我人に対する姿勢ではない。このとき田内知は、己の運命を悟り、自覚した。

 一.士道ニ背キ間敷事

 鉄の掟である〈局中法度書〉の第一が、まさしくこれだ。田内知は幹部のみに許された妾を抱えた。その妾に背かれ、間男に斬られ取り逃がした。武士として、これ以上の無様はない。
「わかるか?」
 血を流しすぎて混濁しながらも、明瞭に
「士道に背きまじきこと」
という言葉が振り絞られた。
「誰か、介錯してやれ」
 それきり云うと、土方は背を向け、二度と振り返ることはなかった。
 田内知の切腹は、新選組粛清者のなかでも屈指の苦痛を伴った。本人が手負いのまま割腹し、介錯者の手際も悪く、二度三度と首を痛めつけても斬首に至らない。苦痛だけが果てしなく続いた。
傍観していた斎藤一が、見るに見かねて、一刀のもとに首を落とした。
「こんなズタズタにする介錯など、ない」
 この話は近藤に伝わった。
 いよいよ不愉快そうに
「切腹よりも、殺してやった方が楽だったかもな」
と、近藤は眉を顰めた。傍の泰助は、こんな惨い死に方はないものだと、あとで源三郎に告げた。
「果ての二十日だよ」
「なんですか?」
「京に生きるなら、面倒な迷信のひとつでも覚えておくべきだな。でも、泰助は大きくなってからでも間に合う」
「よく分かりません」
「いいんだ。今は、何も考えずに、いろいろと学んでおくがよい」
 平隊士たちの間で、罪人引き回しの見物は恐ろしいという噂が流れた。が、新選組の激務の中で、そんな噂もすぐに忘れ去られた。



  衆道横行





 一月二一日、長州と薩摩が手を結んだ。いわゆる〈薩長同盟〉である。第二次長州征伐の風向きが、このときから変わりつつあった。
 千人隊の出陣は四月。
 新選組は監察以外の芸州口派遣はなく、不穏な京都市中警護に忙殺された。
 第二次長州征伐は、幕府の敗退という、予想外の結果に終わった。
武器の精度が異なるといわれるが、なんということはない、調練に長けた側に軍配が上がっただけである。千人隊は直接戦闘の場に遭遇しなかったが、日頃の訓練が足りぬ大名旗本は、市制の志願者から構成された〈奇兵隊〉に敗れた。指揮者の練度も劣った。幕府側は危機感を兵に与えぬことで士気を高めたが、それが裏目となった。
 不運は続いた。
戦いの最中、大坂城に陣を構えた将軍・徳川家定が病により急逝した。これにより幕府軍は撤退を余儀なくされた。
更にこの年の暮れ、会津贔屓の孝明天皇が崩御された。

 世には潮目というものがある。
 このあたりが、四方山における潮目となったのは申すまでもない。

 新選組が伊東甲子太郎の脱退により分裂したのは、慶応三年である。この分裂により、新選組のなかも少しずつ不穏な空気が漂い始めた。
京都の随所では、幕府への信頼が失われていった。
同時に倒幕の声が、宮中からも囁かれ始めていた。

 六月一〇日。
 新選組隊士総員の幕臣取立が決定した。
これまで太刀持ちだった井上泰助は隊士の名簿に記されていない。しかし、この年より正式に、井上泰助の名が名簿に記された。
新選組の名声が高まると、それに縋り隊士応募を望む者も増えた。
あれほど広々としていた西本願寺の屯所は、たちまち手狭となった。僧侶や信徒たちの迷惑も顧みず、新選組は武芸の稽古や砲撃訓練などを繰り返した。これは務めであるから、当然のことだ。
しかし、寺側にしてみれば、いつまでも居着かれては適わない。
とうとう、本願寺は音を上げ、新選組のために
「新たな屯所を建設する費用をもつ」
という条件で、寺からの退去を要請した。
この交渉は随分と早い時期から行われた。要請といいながらも、既に移転を想定した普請は行われていたというのが正しい。
 新しい屯所は、西本願寺に程近い不動村に設けられた。
移転は六月一五日、記録によれば、それは荘厳華美な、見るからに立派な大名屋敷だという。
 さて。
 慶応三年の隊士採用者に、市村ユ之助・鐵之助の兄弟がいる。兄のユ之助は二一歳、局長附人数ということだが、平隊士見習の立場だ。一方の鐵之助は一四歳、両長召抱人として土方歳三に属した。井上泰助にとって、歳の近い隊士である。
しかし、兄弟は苦労を重ねてきた。
簡単に、局内でも心を開こうとはしない。
「兄も俺も、実力で新選組に入ったのだ。縁故採用のお前とは違う。気安く声をかけるんじゃない」
 泰助にからむ市村鐵之助の瞳は、ギラギラとしていた。いつかは新選組でのし上がるのだと云う闘志が漲っていた。
泰助は慣れ合いを好まない。だから鐵之助の言葉も受け流した。それが余裕に映ったものか、鐵之助は面白くない。何か足を引いてやろうと思うものの、土方付小姓にそのような暇はなかった。雑務に次ぐ雑務、ただただ忙殺の日々だった。
 いつしか鐵之助は、泰助を意識することすら忘れた。
 それでも両長が公に会合する際には、次の間にふたり揃って控えることとなった。一切の会話はなく、目も合わすことはなかった。
 こういう関係にあることを、近藤も土方も薄々は感づいていたのだろう。会合が増えたのは、態とだろうか。それとも状況だろうか。
伊東甲子太郎が脱退して半年余が経つ。
彼らのその後は監察により報告されたが、新選組にとって好ましいところではない。
「御陵衛士と称しながら、奴らは公然と伏見の薩摩藩邸へ出入りしていやがる」
 情報を整理しながら、このまま捨て置けないと、土方は口にした。
「薩摩が長州と組んだことは許せぬ。しかし、奴らが何を企んでいるのか、それを探るのが先だ。伊東を泳がせることは無駄ではない」
 近藤の考えは正論だ。
 当時、近藤勇は土佐藩家老・後藤象二郎と誼を通じている。その後藤から、大政奉還という言葉を聞いたことがあった。幕臣としては由々しきことだが、朝廷に政権を返上したとしても、朝廷に代わり政務を執れる存在は徳川家を筆頭とするのが自然だ。薩長の過激を抑え込む上策なのだと後藤はいうが、なるほど、そういうものかと、近藤は思う所があった。
 伊東が薩摩に近づけば、物事には自然と波風が立つ。
薩摩は長州とともに過激を好むものか、否か。もし前者なら、新選組と在京会津藩士で、薩摩藩邸を焼き打ちにすればいい。やるなら先手必勝だ。だからこそ、機を見定めるのだと、近藤は笑った。
「歳よ、総司の具合はどうなのだ?」
 話題を変えた。
 土方の顔色は暗い。
「良順先生は、栄養と休息を十分に与えてやれと」
「労咳か。なあ、歳。どうしてこんなことになったんだろうな」
「多摩に帰してやってもいいんだが」
「総司のことだ、帰る気はないんだろう?」
「ああ」
 好きにさせてやるしかない。近藤は辛そうに呟いた。
 
 土方歳三・井上源三郎は隊士募集のため江戸へ下った。
 試衛館道場に着いたのは九月二七日のことだ。
「先に書簡があってよかった。足を運ぶ頃合いが分って有難い」
佐藤彦五郎・井上松五郎が試衛館を訪れたのは、翌日のことである。新選組の幕臣取立は目出度いことだが、関東にいても幕府の芳しくない風聞は耳に入る。風向きは決していいものと思えなかった。
「姉上が正しかったな。源之助を残してきて、よかった」
 土方が呟いた。
「泰助を預けたのは、父親の浅慮だったな」
 松五郎が呻いた。土方は慌てて頭を下げた。
「泰助は絶対に生かしてお返しします」
「いつかは戦さとなろう。そうなれば、綺麗事も云うてられまい。子供を戦場に送り込むなんて、悪い父親だ」
 それでも松五郎は、いい生き方といい死に様は一緒だと、躊躇いもなく断じた。その覚悟は壮絶極まりない。江戸にいる間、土方は幾度となく日野を往還し、報告は勿論、支援者に変わりなく物心ともに理解を口説いた。
 一〇月一五日、大政奉還が決した。
これにより、幕府そのものが有名無実となった。
大政奉還により幕臣は慌てたのだが、振り上げた拳の下ろす先を奪われた薩長両藩こそ、途方に暮れたのは申すまでもない。これ以上の内乱は無用という意見と、焦土と化しても幕府を倒すというテロル、ふたつの思想が倒幕者たちのなかで交錯した。
 一〇月二一日、土方たちは江戸を発った。
その直後の一〇月二八日、近藤周助が江戸の近藤家で没した。喪主である勇不在であるため、妻のつねが野辺送りを取り仕切った。
この訃報は追って京に届いた。
近藤勇は大声を挙げて泣いた。



 土方が江戸から戻る前のことである。
 新選組の規律は厳しい。しかし、厳しく律しても、全てを縛ることは出来なかった。そのひとつが〈衆道〉である。
武士の世界において、衆道は主従の契りを密にする儀式である。
が、それは戦国乱世までのこと。徳川泰平の御世において、男色は好ましくない対象とされた。それでも性癖とは不思議なもので、禁じられる程に好む輩が現れる。新選組において、問題のひとつとされたのが、この男色だった。
 若い男子は、男色家の目に留まりやすい。
しかし、彼らの多くは両長召抱人である。近藤・土方の直属の者ゆえ、命がけで強姦するしかない。その覚悟がないからこそ、隊内で性癖を同じくする者たちが、好んで男色に更けた。
 しかし、どこの世にも命知らずがいる。
ある男は、井上泰助に目をつけていた。しかし、泰助の縁故は新選組で知らぬ者がない。近藤・土方・沖田の旧知であり、井上源三郎の甥だ。仮に強姦を遂げても、確実に四人の誰かが怒りを以て男を粛清するだろう。
若い菊座は魅力だが、殺されてまで欲する覚悟はない。
だから、我慢するよりなかった。
この男は、代わりをみつけた。市村鐵之助である。男は、夜な夜な鐵之助を犯す夢を見た。土方にさえ気をつければ、失敗の恐れはない。そう思って、じっと機を伺った。
幸い、土方は江戸へ下って不在だ。
今の市村鐵之助は雑務をしつつも遊軍のようなもので、暇を持て余している。
 やるなら、今だ。
 男は、取ってつけた理由で布団部屋へ鐵之助を呼び出し、二人きりになった。
「そなたを我が色に染める」
 鐵之助にとって、押し倒されたことも口を吸われたことも、初めてのことだった。気丈に振る舞っても、子供だ。大声で泣き出した。その頬を張られて、鐵之助はわなわなと震えだした。
「そうだ、子供は大人のいうことに、黙って従えばいい」
 男が自らの褌に手をかけた、そのときである。
「三つ数える間に、部屋からでろ」
 いつの間に来たものか、沖田総司が男を見下ろしていた。その目は、まさしく殺意に漲っていた。沖田の後ろにいたのは、井上泰助だ。泰助が現場をみつけ、近くの沖田に加勢を頼んだのである。
「あいつ、前にもここで隊士を押し倒したんだ。気をつけなさい」
 そういうと、沖田は静かに立ち去った。
 鐵之助はじっと泰助をみた。言葉が見つからなかったので
「助けてもらったなんて、俺は、思っていないからな」
 そう云うしかなかった。
不思議と怒りはなく、泰助はぷっと笑った。
鐵之助も気恥かしさ以外の感情はなかった。二人は大声で笑うだけだった。
 暫くして、男は死んだ。
沖田総司が一番隊に所望し、配置転換されたその日に、ある捕物に駆り出された。新選組には〈死番〉という役割がある。真っ先に切り込む役目で、危険も多い。その死番を負った男は、不運にもそれで死んだのである。
「死番なのに背中を斬られたなんて、よほど臆病だったのでしょうか?」
 検死した吉村貫一郎が、怪訝そうに沖田をみた。
「運がなかったんじゃないか」
 沖田の表情は、妙に涼しげだった。

 一一月一五日、大政奉還の功労者である坂本龍馬が、近江屋で暗殺された。新選組がやったという風聞が立ち、近藤も取り調べに際し否定した。事実、坂本龍馬を捕縛こそすれ暗殺する利は、新選組には皆無だった。
 龍馬暗殺により薩長の過激派は公然と岩倉具視と結託した。無血革命など御免だ。彼らは策謀を巡らし、徳川を殄戮することを望んだ。が、これを知る者はごく一部で、水面下の過激思想といってよい。
 新選組の監察は優れた諜報機関だ。岩倉具視を中核とする過激の主なる人物が、薩摩の西郷吉之助であることを突き止めていた。ひいては薩摩の意思は長州と一致し、大政奉還の有無に関わらず徳川家に害するものである。
 由々しきことだ。
 薩摩は、敵だ。
 そしてもうひとつ、伊東甲子太郎が薩摩過激派の中村半次郎と密接であることも、新選組は内定していた。
「もはや生かしておく理由はない」
土方は伊東の暗殺と、その取り巻きを討つべく、策を弄した。
 近藤は伊東甲子太郎を妾邸に呼びだした。
伊東甲子太郎は単身赴き、互いの抱く国家論を穏やかに交わした。その帰途、刺客に襲われ伊東は絶命した。
伊東の骸は七条油小路木津屋橋付近に捨てられ、報せを受けた御陵衛士たちが駆けつけた。土方はその後のことまで予見していた。
ここで伊東一派の多くが、新選組に斬られたのである。
 伊東の死後、およそ二〇日余。
王政復古の大号令が発せられた。小御所会議の結果、徳川慶喜の辞官・納地が決定された。これにより、名実ともに徳川幕府は終焉を迎える。
しかし、政権は緩やかに移譲されるべきもので、突如変わるものではない。
王政復古を後押しする過激な連中は、のちの国是よりも、徳川を武力で討伐する感情論を優先に考えていた。
 戦争は、避けられるものではなかったのである。

戊辰魍魎



 慶応四年(一八六八)は、戊辰の戦さで年が明けた。
 新選組は昨年のうちに京を引き払い、伏見奉行所預かりとなった。そのさなか、近藤勇は狙撃され重傷を負った。大坂城には徳川慶喜がおり、松本良順もいる。近藤は沖田ともども大坂へ搬送され、療養を余儀なくされた。
これにより、新選組の指揮権は一時的に副長・土方歳三に委ねられた。両長召抱人たちも、子供とはいえ戦場に立つこととなった。
「泰助、お前は後方で副長を補佐するように。鐵之助もだ」
 伝令として駆けつけた鐵之助の兄・市村ユ之助が、きびきびと指図した。泰助は腹をくくったが、鐵之助は心細そうだ。
「泰助」
「ん?」
「俺も兄貴も、親父が没落して国友村にいたんだ」
「鉄砲鍛冶の?」
「兄貴は鉄砲を学んだけど、俺は学ばなかった。剣の腕を磨けばいいと信じていたんだ。でも、みろよ。俺たちはこうして鉄砲を担がされている。まともに撃てるか、不安でならない」
「撃てるさ。そんな心配より、もっと大事なことがある」
 泰助は、じっと鐵之助をみて、真面目な表情で
「敵に当てる自信がない」
 ぷっと、鐵之助は吹いた。馬鹿馬鹿しいと、思わず声を出して笑った。
「テツ、やかましい!」
 土方が一喝した。
 緊張感が鐵之助から消えた。そして、泰助の肩を叩きながら
「真ん中を狙うと、外れても身体のどっかに当たるらしい。兄貴からそう聞いた」
「じゃあ、そうしてみるよ」
 二人は、陣営後方に走った。
 一月二日、伏見市街で戦闘が始まった。これより数日を要す戦闘を総じて〈鳥羽・伏見の戦い〉という。この日の戦いで伏見奉行所が炎上したため、新選組をはじめ幕府軍は淀方面へと退却した。随所で砲声が響き、伏見は火災で煙に包まれていた。
(父上とお忍びで会った、魚三桜は無事だろうか)
 泰助の立つ場所から店は見えないが、魚三桜は目と鼻の先である。思い出の場が戦火にさらされることは痛ましい心地だ。このとき魚三桜は燃えてこそいないが、薩長側からの銃弾が表の格子を抉っていた。
 三日の戦いも熾烈だった。斬り合いになれば存分な働きの新選組も、敵の懐に飛び込むまでが至難であった。徐々に、徐々に、隊士が損なわれていく。この損耗は、長期戦には厳しい。
 四日、淀城で立て直しを図ることが決した。幕府勢は城下まで退いたが、淀藩は突如幕府に背き、城門を閉ざした。満足な補給もないまま、幕府勢は淀城下で身体を横たえ疲れを癒した。大人の疲労は無理もないが、寒空の下、子供とて疲労は隠せない。
「泰助、いつ食えるか知れぬ。握り飯を食っとけ」
 源三郎が声を掛けてきた。
「叔父さんこそ、食べないと」
「もう食った。子供だからって、遠慮はいらぬぞ」
「なら、鐵之助にも」
 市村鐵之助も土方から握り飯を渡されていた。ならばと、泰助は大きな口で頬張った。
「おい、泰助」
 鐵之助が竹の水筒を差し出した。水を干すと、握り飯が胃に流れていく。
「かたじけない」
「なあ、見たか?」
「ん?」
「敵陣に派手な旗が立っていただろ」
「ああ、見た。なんだろうな。撃ってくれって云ってるみたいだ」
「結構、みんなも狙っていたようだぞ」
 戦時中、その旗が〈錦の御旗〉などと、徳川勢は知る由もない。勿論、その意味も知らぬ。旗に逆らえば賊軍になるという概念は、四日の時点で、幕府勢にはなかったのだ。この意味が広まるのは、後日、徳川勢に紛れた間者によるところが大きい。
 五日、払暁。泰助は淀川の土手で用を足していた。慣れとは恐いもので、野戦でもすっかり睡眠が摂れるのである。
「お、早いな」
 源三郎も用足しにきた。
「叔父さん、眠れましたか」
「駄目だな。島原の綺麗な布団を思い出してしまうよ」
「叔父さんはまだ、泊まったことないでしょ」
「バカをいうな、俺だってな……」
 図星だった。源三郎は甥の目を気にして、いつも酒席のあとは屯所に帰って来た。こういう見栄が冗談にしかならないことを、二人は承知のうえだった。
「生きて日野に帰ろうな。こんなところで死んだら、馬鹿馬鹿しいものな」
「はい」
 叔父と甥は、屈託ない笑みを交わした。
 千両松の戦いは、苛烈だった。
 この戦いで、新選組は一四名の死者を出した。
井上源三郎もその一人だ。銃弾に当たり後方へ搬送されたとき、源三郎はもはや意識もなく、泰助に看取られながら息絶えた。
「源さん、こんなところで、無念だろうな」
 土方歳三が悔しそうに俯き、手を合わせた。
「副長。叔父さんは日野に帰りたいと、今朝、そう云ったんです。俺は、叔父さんを連れていきます」
 泰助は源三郎の御級を挙げ、太刀を帯から抜いた。このふたつだけでも日野に持って帰るのだと、強い口調で呟いた。
泰助は御級を胸に抱えたまま、やがて大坂へと撤退することとなった。
 現代人は御級や太刀がいかに重いか、実感がない。これを抱え、自身の刀も佩いたまま、徒歩で淀から大坂へ向かうのである。それが、子供の足で叶うものではないことなど、誰もが承知していた。
「もう、諦めろ。お前までが、行き倒れてしまうぞ」
 隊士たちが口々に促した。泰助の体力にも限界がある。もう、これ以上は、歩けなくなる。生きて日野に戻り、父・松五郎へ源三郎の最期を伝える義務が、いまの泰助にはあった。野垂れ死になど許されない。
 見ると、寺があった。
「欣浄寺……」
日野の家の近くにある寺と同じ名前だ。門には朽ちた看板が掲げられていた。奇遇である。日野には連れて行けずとも、一先ずは日野の気分を味わって欲しい。そう考えた泰助は、寺の前の田圃を急いで掘った。近くの隊士も手伝った。そして、御級と太刀をそこへ埋めた。
「叔父さん。いつかきっと、ここへ戻って来て掘り返すよ。ぜったいに、日野へ連れて行くからね」
泰助は泣きながら誓った。
 更に暫く歩いた。
舟付場に数隻が係留されているのが確認された。土方は船頭を説得し、新選組は舟に分乗して大坂へと向かうこととなった。人数は充分に収容できる。
(ここまで辛抱できたなら、叔父さんを連れて行けたのに)
 泰助は悔しかった。源三郎を連れて行けないことが、悔しかった。ここまでたどり着けぬ非力さが、無性に悔しかった。
「わかっている」
 大粒の涙を流して俯く泰助の肩に、土方歳三の手が置かれた。小刻みに震えていた。悔しい想いは同じなのだと、泰助は悟った。だからこそ、涙が止まらなかった。
 泰助はまだ子供だった。

 鳥羽・伏見の戦いは、散々だった。
大坂で巻き返しをと考えていた矢先、味方を欺き、将軍・徳川慶喜は海路ひそかに江戸へ逃げてしまったのである。置き去りにされた兵の無念は、例えようもない。
 一〇日、新選組は負傷者を富士山丸、動ける者を順動丸へ分乗させ、海路、江戸へと引き上げた。
去りゆく大坂の沿岸は、まるで無縁の彼岸みたいだ。
もう、無縁だと、誰もがそう感じた。
なんとも不思議なことだった。
「みな、よく戦ったな」
 近藤勇は疵を押さえながら、そう労うのが精一杯だった。
沖田総司は、もう自力で立つことも出来ない。千両松で疵を負った山崎丞が富士山丸で息を引き取ったのは、一一日のことだった。
皆は慣れぬ船に乗り、浪に酔って散々であったが、それでも富士の白い嶺を仰ぎみたときは、揃って涙ぐんだ。



 幕府お偉方の乗る船は御浜の御殿で上陸したとされるが、新選組は江戸の手前にあたる品川に上陸した。一月一二日のことである。
新選組は釜屋に宿をとり、臨時の屯所とした。
品川宿の釜屋は、東海道沿いにある。当時の海岸線は、現在よりも内陸にあり、釜屋の窓からも海原が遠望できた。かねてより新選組は、釜屋を頻繁に利用しており、勝手もよく知っていた。
ここで全員衣類を改めて、戦さの臭いを江戸府内へ持ち込まぬよう徹底された。
このとき土方歳三はフランス士官の軍服を所望した。当時、フランス陸軍は幕府の軍事顧問だから、いくらでも制服を調達することは可能だ。ただ、背丈の採寸からなので、時間はかかるという。土方にとって、どこの国のものというこだわりはない。ただ、銃火器の飛び交う戦場では羽織袴が不自由だと、鳥羽伏見の戦場では嫌というほど思い知らされた。この現実的な観点に基づくものであり、現時点で土方は西洋かぶれになった訳ではない。
対する近藤勇は、旗本格らしい身の上に相応しい着物を望んだ。
この調達品が届くまでは時間がかかる。暫くは着流しで過ごそうと、土方は洒落こんだ。
 幕末期、多くの者が変名を用いた。
何ということはない、世を欺くためのものだ。
このとき近藤は大久保剛、土方は内藤隼人を名乗った。所望した服装は、用いた変名に相応しいものだと、土方は笑った。
「どうして、内藤だと洋式だい?」
 近藤勇が首を傾げた。
「内藤は何だっていいんだよ。大久保なら幕府の若年寄みたいだろ。紋付き袴がお似合いだということさ、近藤さん」
 土方は洋装を望む隊士にもフランス軍服を奨励した。動きやすいズボン式の服は、実践向けだ。多くの隊士は千人同心を見知っている。あの一隊もボタン式のシャツにズボンだった。だから洋装への偏見はない。ただ、自分が着こなせるか、それだけの不安だ。
それでも洋装を望んだ隊士は多かった。
 市村鐵之助も洋服を望んだ。副長付だから当然だという理由だ。井上泰助は着物にこだわった。局長付ということではなく、好みの問題だった。
「こういうことは、誰の小姓だという影響が大きいんだよな」
 鐵之助はそういって、泰助をからかった。好みの問題だということよりも、両長の好みが小姓も一致したことが、鐵之助には愉快だったようだ。そういう感性が、泰助には理解できない。
「そんなことより」
 気懸りは、沖田総司だ。
 自力で起き上がる事も至難な沖田は、釜屋までは籠で運ばれた。この先、戦列に加わることは不可能だと、誰もが思った。
「両長召抱人の誰かが、沖田先生の介護になると噂が出ている。俺は、土方先生の傍から離れたくないな」
「鐵之助は副長のお気に入りだ。心配はないだろ」
「それが裏目に出ないか、心配だ」
「え?」
「土方先生にとって、沖田先生は格別なんだよ。お気に入りだからこそ、格別の人に付けられないかな。俺、不安だよ」
「おまえ、意外と心配性なんだな」
「意外とは、なんだよ。俺、真剣だぞ」
 鐵之助は口を尖らせた。
 面白い奴だなと、泰助は笑った。
 翌日、負傷者は富士山丸に乗せられ横浜病院に送られた。介護役は島田魁が任じられたが、近藤勇も治療のため乗船した。入院患者の中に、近藤・沖田の名はなかった。
 一五日、近藤勇は富士山丸で品川に戻り、その他の加療を要す者たちと芝御殿内上浜療養所に向かった。近藤がここへ向かったのは、松本良順がいると聞いたからだ。沖田総司の療養は松本良順の目が届く場で加療することが望ましい。ただ、一緒じゃないと沖田は我が儘を口にして困らせる。このとき近藤は沖田総司の傍にいた。
「おお、近藤さん。よく無事で戻ってきた」
「船酔いはもう懲り懲りです」
「あれは病ではない。諦めろ」
 明るく務めながらも、松本良順の目は沖田に注がれていた。すっかり病んだ沖田は、かつて鬼のように恐れられた剣気もなく、ただ目だけをギラギラとさせながら、近藤・土方の行くところには、どこへでも付いて行くという言葉だけを繰り返した。
 誰もが痛ましくて、涙を禁じえなかった。
 先ず近藤の治療が行われた。
伏見で被った銃創は、骨も砕くほどだ。そんな重症の近藤は、本来ならじっと療養をすべき身だ。しかし、その暇さえ得られないのが、今の新選組である。
「いいな、良順先生の云うことは絶対だからな」
 近藤は沖田に云い含めながら、この日、品川へ帰った。
一七日、近藤は土方を伴い江戸城へ登城し、将軍の謁見を行った。
 新選組は負傷者の回復を待ちながら、つい半月も前の戦闘が、ひょっとしたら夢ではあるまいかとさえ思う者もいた。無理もない、品川から江戸にかけて、戦さの気配は些かも漂っていなかったのだ。それでも現実に死んだ同胞がいる。
井上源三郎が死んだ。
この事実だけは誰の胸にも残されている。夢では、ないのだ。
 新選組の滞在はおよそ一カ月。日野から多くの知己が釜屋へ駆けつけた。
「泰助、いい面構えになったな」
 佐藤彦五郎は井上泰助をみつけると、目を細めて笑った。
日野や多摩の支援者たちは、鳥羽伏見の戦いのことを早文で知っていた。井上源三郎が死んだという報せも受けている。
が、実際に井上源三郎が死んだことを、佐藤彦五郎は諦めたように納得した。
「これを井上家に伝えるのは辛いなあ」
と、彦五郎は目を伏せた。その日のうちに、佐藤彦五郎は釜屋をおいとました。ここは宿屋ではなく、屯所だ。そのけじめは弁えていた。
 二月一二日、上野寛永寺で謹慎する徳川慶喜は、恭順の意を態度で示した。落胆する幕臣も少なくない。小栗忠順は強硬論と軍略を説いて徹底抗戦を迫った。この具申を慶喜は許さず、直々に蟄居を命じられたという。このとき戦うことを主張したのは、小栗忠順だけだった。
 他に徹底抗戦を望む者はなかった。
 後年、福沢諭吉は「痩我慢の説」を書した。敵に対して勝算がない場合でも、力の限り抵抗することが痩我慢なのだ。そして、家のため、主人のためとあれば、必敗必死を眼前に見てもなお勇進して徳川家康を支えた三河武士の「士風の美」を痩我慢の賜物として、かくの如く賛美した。恰もこれは、小栗個人の評とも受け取れる。そして、それ以外の幕臣を指す、不甲斐ない侮蔑でもある。それほどまでに、徳川家の堕落は、目を覆うものがあった。
 しかし、戦わぬ者が全て否定されるのは、短絡的といえよう。
徳川だけのことを思うなら、それは忠義を口に出すのみで済む。一部の見識者は、敵味方だけで単純に判断する以外の評論を持つ。その評論を、将軍自らが有していた。だから先頭に立って戦う選択肢を放棄した。そして、慶喜の意を汲んだ者たちは、最小限の痛みを以て幕府を上手に終わらせるための尽力に追われた。
それは、火中の栗を拾うような、まことに損な役回りだった。
その中心人物が、勝海舟である。
卓見と胆力に辛抱強さ、敵の懐に踏み込むような外交手腕。例え誰から罵られようが、平然とする肝の太さ。勝海舟は、ひとかどの人物には違いなかった。
 その勝の目には、新選組が真っ先に映っていた。
これがいかに邪魔な存在であるか。
江戸無血開城を志す彼らにとって、薩長の憎しみを抱え込む新選組は、招かれざる忌むべき存在だった。
「いっそ上方で負けた時に、隊を解散してくれたのならな」
 偽らざる勝の本音だ。
だから、江戸から遠ざける方便は、すぐに唱えられた。
近藤勇に甲府行きが命ぜられたのは、慶喜警護の期間中だろう。一七日には甲州探索の支出金が支払われた記録があるし、二四日には隊士全員に外套が購入されたとある。明らかに甲府行きの支度だ。外套とはマントルすなわちマント。土方は結局、隊士全員に、洋式服を制服として配するつもりだった。
「歳よ、こんなの着れねえよ」
 近藤の愚痴は内輪事だけで済まされた。些細な言葉が士気に影響する。土方は江戸にいる間に、洋式兵学を学んだようだ。その合理的な軍制は、彼の思惑と一致した。服装は動き易く身を守るものであり、ここから改革することには、十分な意味がある。
「局長なんだから、個人的な見解は飲み込んでくれろ」
 土方はそれきり答えるのみだった。
「どうだ、泰助。お前も洋服だ。ざまあねえな」
「……うるさい」
 市村鐵之助は真新しい隊服に大喜びし、井上泰助は着心地の悪さに仏頂面だった。それでも慣れとは恐いもので、厠へ行くのが楽だと、考えを改めるに至る。
新選組のみならず、当時の旧幕府寄りの軍隊は、殆どが洋服を制服としていた。戦闘における機能性は着物よりもよい。これは紛れもない事実だった。

 二月二八日、新選組は正式に〈甲府鎮撫〉を命じられ、武器・弾薬の供与を受ける。この進発に際し、新選組は〈甲陽鎮撫隊〉と名乗り、近藤・土方は変名を表に出した。知らぬ者は、これが京わらべを震わせた新選組だと、夢にも思うまい。
 三〇日、甲陽鎮撫隊は内藤新宿に宿営する。先を急がず新旧の隊士が和を深めるべきだというのが、近藤の狙いだった。事実、隊士の大半は江戸での募集に応じた新参である。人を斬りすぎた古参との垣根を取り払うには、ひとつ釜の飯を食らい、杯を重ねて、ともに女を買う事である。
近藤の目論見は幸いにして、このとき功を為した。朝になると、隊士の連帯感は見違えるようだった。
 ひとつだけ問題がある。
この出陣にあたり、沖田総司は請いて同行した。しかし、途中で病状が悪化し、常久村(現・府中市若松町)の関田庄太郎宅に預けられることとなった。関田庄太郎はこれまでも天然理心流試衛館道場に関わった人物で、沖田とも旧知の関係だ。泣く泣く離脱する沖田は、まるで親に捨てられた子のように、号泣した。
「あれほどの剣才を持つ人なのに」
 泰助はやるせなかった。
目と鼻の先なのに、さぞや日野へ行きたかっただろう。沖田の号泣は、思うままにならぬ苛立ちそのものだ。病が、剣の天才を凡人に転落させてしまった。
 悲しいことだった。
 見送る側も、送られる者たちも、身を切られるような別れだった。
 三月一日、府中に宿営した近藤は、佐藤彦五郎と井上松五郎を招き談合した。兵力を維持する荷駄の人員調達を求めた。兵力も求めたかったが、危険な戦場へ郷里から人手を調達する気はなかった。
「松五郎さんには、謝らなければならぬことがある」
 近藤の声は震えていた。
「源三郎のことは気にしておらぬ。事故ならいざ知らず、戦さとあっては、死しても仕方のないことだ」
「源さんは日野に帰りたかったのだ。あの日の朝、泰助は直接そう聞いたそうな」
「泰助か。会いたいな、話は出来ますか」
「無論です」
 近藤は次の間に控えている泰助を招いた。
「よく生きて帰ったな、泰助」
 松五郎はにっこりと笑った。
 泰助は泣き笑いのような、複雑な表情を浮かべ、言葉が選べずに、父にお辞儀をした。その胸中を察した近藤は
「源さんの事を話して欲しい」
 そう切り出した。
「叔父さんを連れ帰れなくて、ごめんなさい」
 振り絞るような声で、泰助は呟いた。
「いいんだ。大人だって負け戦さの退却時に、余計な荷物を抱えることなんて出来ない。そのこと、長州征伐でよく知っている。泰助はそれでも頑張ったのだ。源三郎も許してくれるだろう」
「父上」
「さあ、源三郎の最期を教えてくれ」
 泰助が知るのは、銃に倒れて意識のない状況だった。徐々に呼吸が途切れていく様が生々しかった。完全に事切れて、みるみると土気色に変わり、やがて青白くなっていく源三郎の貌が悲しかった。
「生きて日野に帰ろう、ここで死んだら馬鹿馬鹿しい。あの日の朝、叔父さんは、そう云ったんです。だから、御級と刀だけでもと思ったんです。でも、あんなに、重たいなんて……」
「そうか、そうか」
「みんなが捨てて行けというので、意地でも持って大坂に辿り着きたかった。でも、どうしても出来ませんでした。それだけが心残りでした」
 子供の身で、さぞや辛いことだったろう。松五郎は何度も頷いた。
「源三郎の首、どこに埋めてきたか覚えているな?」
 佐藤彦五郎が割って入った。泰助は大きく頷いた。
「淀の、欣浄寺という廃寺の前の田圃です」
「欣浄寺か、どっかで聞いた名だな」
 彦五郎は首を傾げた。
「うちの斜向かいにある寺と同じ名前だ」
 松五郎が答えた。
「ああ、そうだそうだ。廃寺とはいえ、奇遇なことだな」
「源三郎の念だろうな。それほど家に帰りたかったんだ。新しい位牌を作って、迎えてやらなきゃいけないな」
 泰助はずっと俯いたままだ。
「泰助」
「はい」
「立派になったな」
 松五郎はそういって笑った。そして、近藤に向き直った。
「泰助をここまで教えて頂き、感謝の言葉もございません」
「やめてくだされ」
「泰助に武士らしい生き方を教えて欲しいと望みました。でも、人としての生き方も教えてもらったようだ。さすがは宗家、感服仕りました」
「泰助は自分で学んだのです。京は生き馬の目を抜くような場所、いちいち物事を教えている暇はございません。学ばねば、生き残れなかった。泰助は自ら学んで、生き延びたのです」
 近藤の評はある意味、事実だ。
小姓として市中警護に出る機はなかったものの、一己の者として往来へ出ることはある。新選組である以上は、いつ命を狙われてもおかしくなかった。切り抜けたのは、泰助の天賦なのだ。
「下がりなさい」
 近藤は泰助に促した。
辞する泰助の所作を、松五郎は目を細めて見守った。

 三月二日、甲陽鎮撫隊は日野の佐藤彦五郎邸に着いた。
前日の要請に従い、人足の調達は済んでいたが、思いもよらぬ援軍が揃っていた。佐藤彦五郎自ら組織する春日隊だ。武州一揆さえ退けた生え抜きの農兵隊である。近藤は同伴出来ないと拒んだが、とうとう三〇人ばかりが強引に同行することになった。
「泰助は立派になったね。うちの倅も京にやればよかったかね」
 彦五郎の妻・とくが、羨ましそうに呟いた。
「おめえが歳を叱って、源之助の上洛を拒んだんだろうが」
 彦五郎が噛みついた。
「だから、今になって思うんですよ。いちいち絡んで来ないで下さい。みっともない」
「亭主に向かって、なんだ、この……」
「近藤先生の前でみっともない。歳も、うちの人を止めて頂戴」
 こういうところでも平素のように夫婦喧嘩ができるのだ。羨ましいことである。止めるなんて、野暮だと、土方は笑った。
 日野の歓待に気が緩みつつも、甲陽鎮撫隊は翌日には行軍を急いだ。八王子を突っ切り、小仏峠を越えていった。
 日野で大宴会をした印象は、小説によるところが大きい。
しかし、『佐藤彦五郎日記』にはその記述はない。それでも故郷に錦を飾る想いが、近藤・土方にはあっただろうし、迎える側にも、立身した知己の男たちを祝う気持はきっとあった筈である。
 しかし、内藤新宿からの行軍速度が遅いことは、事実だ。
そのことが、こののち近藤にとって命取りとなる。



 三月三日、土佐藩の断金隊は中山道より下諏訪に至り、この日、甲府をめざしていた。
 四日、土佐勢が甲府城に入った報せを猿橋で聞いた近藤は、雨中、慌てて進発する。援軍要請のため、斎藤一は谷村へ走った。笹子峠を越えた甲陽鎮撫隊は、次々と入る敵の情報に翻弄される。兵力差は格段の違いがあった。
「埒が明かねえ。江戸まで援軍を頼みに行く」
 土方は自ら馬を駆り、もと来た道を急いで戻った。
途中、日野の佐藤家に立ち寄り
「江戸へ援軍要請にいく。どうにも数が足りねえ。姉さん、義兄の着物を貸して欲しい。それと早駕籠を」
「なんで、うちの人の着物を?」
「慶喜公の御前に出ることもある。この洋服は汚れ過ぎて、御前には具合が悪い」
「わかりました」
 ここで土方は、彦五郎が新調しておいた羽織袴に着替え、馬を預けて駕籠に乗った。
「くれぐれも洋服を洗わないで下され。姉上ならやりかねん」
「汚れているなら、洗いますよ」
「いいのです、下手に洗うと洋服が崩れます」
 土方が日野を発ったのが六日。この日、甲州勝沼柏尾で、甲陽鎮撫隊は敵と激突した。戦いは正午より一刻ほど、甲陽鎮撫隊の敗退だった。戦力の差は覆うべくもない。
 援軍工作に失敗した土方が日野に戻ったのは、七日のことだ。
「なに?」
「春日隊から駆け戻った若ぇ衆が云うには、勝沼というところで負けたんだって」
 とくの言葉に、土方は頭を振った。
「で、近藤さんは?」
「無事だそうだよ」
「急いで合流しねえといけねえな。姉上、着物をありがとう」
 土方は薄汚れた軍服に着替えると、つないである馬に飛び乗った。
土方と近藤が合流したのは、八日、吉野宿のことであった。その後、部隊はこの日のうちに小仏峠を越えて駒木野関を通過した。
「泰助」
 近藤は泰助を呼んだ。春日隊がすべて去ったことを確認すると、近藤は優しい表情で
「我らは夜通し駆けて、日野を通過する」
「はい」
「お前に頼みがある」
 近藤勇は多摩地方が戦火に焼けることを大いに憂いていた。
 恐らく佐藤家の人間は、今頃、身を隠すために右往左往しているだろう。或いは甲州街道から離れた小野路あたりに潜伏すると考えてよい。
「泰助、お前を局より罷免する」
 近藤は毅然と云い放った。
「どういうことですか、局長」
「そういうことだ」
 これより先は、将来ある者を連れて行くことなど、考えられなかったのである。
「泰助、お前は鹿之助殿のところへ身を隠すのだ。いざとなったら小野路村のために戦って、死ね!」
「局長!」
「いいな、命令だぞ」
 突然のことで、泰助は戸惑った。
傍らの土方が、泰助の背を叩いた。
「日野はお前の父がきっと守るだろう。お前は小島家や橋本家を守れ」
「そんな」
「いいか、ただの小姓なら、局長はこんな命令などしない。これは局長の想いだ、わかるな?」
 近藤勇の気持を汲んだ土方が、強く泰助を諭した。
「俺たちは、きっとここへ帰ってくる。帰る場所を任せられる奴が、他にいるか。源さんはなく、総司も動けねえ。同郷の男は、お前だけだ。わかるな、泰助!」
「副長」
「彦五郎さんも、俺の姉さんも、頼めるのはお前だけだ」
「副長……」
「男の約束だ。多摩の支援者のために生きろ」
 土方の言葉に、泰助は泣く泣く小野路村へと走った。
「泰助、死ぬな!」
 市村鐵之助の声が、夜の闇に木魂した。

多摩瓦解



 断金隊の統率者は、土佐の板垣退助である。土佐藩は坂本龍馬を暗殺したのが新選組だと信じていた。龍馬と一緒に斬られた陸援隊の中岡慎太郎に信服していた板垣は、個人的に拭えぬ恨みを燻ぶらせていた。
しかし、新選組発祥の地である多摩地方を通過する際、彼は意外にも厳しく巡検をしなかった。その背景には、恭順の意を示した千人隊の頭たちの、真摯な態度が強く影響していた。三月一一日、千人頭たちは誓詞を差し出し、朝臣であることを表明した。そうすることで、多摩を戦火に曝す愚挙を回避したのだ。
 小野路に潜伏する新選組支援者たちは、厳しい残党狩りを予想していたものの、それが回避されたことを知り安堵した。幸いにして目溢しされただけだが、狩られるよりは遥かにましだった。
 しかし、春日隊を率いた佐藤彦五郎とその家族については、厳しい追及が為された。
佐藤彦五郎夫婦は平村の大蔵院に入り、源之助は粟須村の井上忠左衛門家へ逃れた。他の眷属は小野路村を頼った。東征軍の追求が迫り、彦五郎夫婦は大久野村の羽生家へと居を移し逃げ果せたが、源之助は遂に捕縛された。
源之助は新選組に関する情報を厳しく詮議された。
「郷里の者に金や物は送る。これは誰でもすることだ」
源之助の答えは一貫していた。
実際、郷里の縁者ともなれば支援も仕方はない。坂本龍馬などは各地から知己の者に無心していた事実がある。
「これが非ならば、京に上る者の家族は同罪じゃ」
 真実だ。これには断金隊も困った。武士ならまだしも、佐藤源之助である。断金隊は武士でもない者を死罪にするほど暇ではなかった。
「父を庇う心根は、見上げたもんじゃき」
それを孝行だと褒めたのが、板垣退助だった。板垣は源之助を赦免したが、彦五郎の行方だけはその後も追った。
閏四月四日。
彦五郎は多くの嘆願の甲斐あって許された。その頃には、彦五郎を捕らえようが質そうが、もうどうでもいい状況だった。佐藤彦五郎一家の詮議は、新選組幹部の行方を捜すためのものだ。新選組の一党はたえず動く。いまさら彼らが知るはずもない。それだけのことだった。

 井上泰助が除隊したあとの新選組を待っていたものは、凄惨な別れの数々と、逃避行にも等しい旅であった。
 勝沼の敗戦により、新規採用の隊員は相当数が離脱した。
今戸で立て直しを試みる近藤は、感情の行き違いにより、長年共に行動してきた永倉新八・原田左之助に決別を突きつけられる。
近藤の志は、いまを以て〈報恩幕府〉に変わりはない。
永倉・原田もそうだ。
ただし、新選組という器が幕府直臣となった以上は、近藤が局長であり、その下は家臣ないし家来だった。そのことに間違いはない。しかし、永倉・原田にとって、近藤は試衛館以来の同志であり、単なる旗頭に過ぎない。
「諸君は我が家来も同然」
と宣言する近藤に、新参古参の垣根はなく、すべてを包括する意思がある。対して永倉・原田には、どこか自分だけは特別だという甘えもあったのだろう。それは底辺から共に行動してきた同志ゆえの意思であり、特別な感情だった。
 とまれ、試衛館以来の同志は、ここで分裂した。
 井上泰助がその場を目の当たりにしなかったことは、幸いといってよい。旧知の大人が、意思を違えて、激しく云い争う姿は、決して格好のいいものではない。
 新選組は五兵衛新田で再起をはかった。
三月一四日、近藤は大久保大和を名乗り、追撃の手を眩ます策をとった。
「すまねえな、歳」
「なにが」
「とうとう、二人きりになっちまった」
「なに云ってんだ。まだ総司がいるよ」
 その沖田総司の療養先も、土方は抜かりなく手配した。病院に置けば、いつか焙り出されて制裁される。薩長は武士道のわからぬ冷血漢の集まりだと、土方は信じていた。だからこそ、市井に匿って貰うのが最善なのである。
「総司はどこに?」
「千駄ヶ谷に植木屋がある。憶えているだろう?試衛館道場から甲州街道に向かって、その先に」
「ああ、あるな。植木屋だらけだ」
「平五郎という植木屋の離れに総司を託してきた。いい奴でな、すっかり総司に同情してくれたよ」
「身分は明かしたのか?」
「俺の縁者ということにしといた。新選組の沖田総司だなんて分かれば、噂が噂を呼んじまう」
「そうか、そうだな」
 植木屋柴田平五郎を土方に推薦したのは、松本良順だ。その良順も、今は会津にいる。
「総司は、なにか云ってたか?」
「近藤さんの顔が見たい見たい。何度も、そう云ってたよ。だから、早く治して追って来いと、いつものような軽口で」
 土方にとっても、これは辛い役目だった。
もう本復は望めないことを知りながら、病は軽いのだと、沖田に対し悟られぬよう演じなければならなかったのだ。
「だから、近藤さん。永倉たちとは別れたけど、俺たちは二人きりじゃないんだ」
「そうだ、そうだな」
 近藤勇は笑顔を溢した。
 新選組は再募集により、二二〇の隊員数を超した。十分な戦力である。四月一日、新選組は流山へと転陣する。
 この流山布陣は、江戸を占拠した薩長東征軍に
「幕府残党が武装して立て籠もる」
という情報で伝えられた。
この当時、江戸の周辺には、幕府残党が江戸開城をよしとせず、謀叛を企てていた。流山の残党も、数多あるそのひとつと考えられた。春日部に駐留する新政府の部隊がこれを包囲し、解散するよう勧告にあたった。四月三日、新政府軍の包囲をうけた近藤勇は、もはやこれまでと、切腹を決断した。
「早まるんじゃねえ。まだ新選組とばれた訳じゃねえ」
「歳」
「ここは云い逃れて、何としても切り抜けるんだ」
 土方は、将軍の水戸謹慎に護衛する地元義勇軍だと云い張るしかないと訴えた。解散するなら偽装して分散する。そして、各戸会津を目指そうという筋書きもつくった。
「いいな、あんたは講武所で剣術指南をしていた旗本・大久保大和だ。最後まで大久保だと云い張れ。江戸から出たこともない、薩長とも関わりのない、将軍お目見え以下の、しがない旗本なのだ」
「えれえ扱いだな」
「もし近藤だとばれてみろ。十中八九、殺されちまうぞ。嘘をつき通して、必ず帰ってこい。解散には応じてもいい。生きて帰るんだ。いいな」
 土方には不安があった。
 春日部からきたこの部隊は、どこの本隊に属すものか。土佐ならまだいいが、薩長ならば、新選組を憎悪している。万に一つも助からない。
 新選組と悟られぬことこそ、最善かつ最優先なのだ。
しかし、この不安は、なんだろう。
 近藤は羽織袴の正装で、連行に応じた。尋問は本隊のある越谷だった。近藤は平然とこれに応じた。それなりの大義を以ての参集なのだと、そういう態度だ。心の底まで旗本・大久保大和になりきっていた。何とかこの場を切り抜けられると信じていた。
「あれは新選組の近藤ではあるまいか」
 そう唱えたのは、彦根藩の渡辺九郎左衛門だった。
渡辺は近藤の顔を見知っていた。彦根藩は幕府より寝返って日が浅い。なんとしても挽回の機を伺っていたところに、近藤が現れたのだ。
 まるで鬼の首を取ったような声に、本隊の者は訝しんだ。
彦根藩は徳川譜代の家だし、安政の大獄で恨みを買っていた。大言壮語に辟易しながらも、念のためにと、大久保大和の尋問を開始した。ところが、幸か不幸か、近藤である疑念が浮かんできたのだ。
「私は大久保大和である」
 近藤はこれを繰り返し、新選組との関与を否定した。
 その頃、新選組は解散と称しながら、斎藤一に率いられて会津に向かっていた。土方は単身江戸へ潜入し、勝海舟に
「大久保大和の嘆願」
を求めた。
あくまでも近藤ではなく、大久保大和の助命だ。しかし、勝海舟と西郷吉之助が通じていることを、土方は知らない。
「近藤は捕まったよ」
 勝海舟はそう断じた。
 大久保ではなく、近藤が捕まったのだと、そう云ったのだ。渡辺九郎左衛門の発言ではない。越谷から板橋へ連行され、そこで加納鷲雄から正体を指摘されたのだ。加納鷲雄は伊東甲子太郎とともに御陵衛士として局を脱した一人だ。油小路で斬られた一団にいなかったため、奇遇にも生き延びたのである。
伊東を殺された恨みもある。近藤を見間違える筈などなかった。
「じゃあ、近藤の助命をしてくれ」
「無茶をいうな」
「近藤がこれまで幕府のために、どれだけ尽くしたと思っているのだ!」
「諦めろ!」
 勝海舟は助命に応じなかった。
むしろ近藤ひとりを生贄にすることで、徳川への恨みを薄く出来るなら、たいへん結構なことだとも云った。
「別れのときと思え。いいな、近藤は助からない」
「話にもならねえな」
「近藤は、死に場所を得られたのだ」
 土方は無言で去った。
別れとは、すなわち死を意味する。

 四月二五日、近藤勇斬首。場所は、板橋宿だった。
 このとき土方は幕府残党と行動をともにしていた。奥州街道を北上し、宇都宮城を攻め落としている。
近藤斬首の知らせは、日野にもたらされた。
「局長が?」
 井上泰助は驚愕した。
捕えられたと聞いてはいたが、こんなに早く首を落とされるとは思ってもいなかった。薩摩も長州も、自分の都合で、世を瓦解したのだ。その瓦解を妨げた近藤勇への私怨だけで、斬首したに違いない。
「悔しいけど、殺された者は戻って来ない。悔しいけど、局長……!」
 泰助の両目から涙が溢れた。
流れた涙は、畳の上に音を立てて落ちた。



 閏四月一〇日、日光勤番に赴いていた井上松五郎が帰って来た。東照宮を新政府軍に明け渡す役目を負い、たいへん辛かったと呟いた。
「宗家は死んだそうだな、泰助」
「はい」
「そのこと、歳の使いの者から聞いた」
「副長は、日光にいたのですか?」
 土方は宇都宮城を落としたが、拠点の維持が出来ずに、これを放棄したのだ。
今市より会津へ向かう途中、神君参詣を望んだ。しかし、追手が来たため今市で戦闘状態になった。
このままでは東照宮が戦火で灰燼に帰す。
千人隊は東照宮を守るため、新政府にこれを明け渡すという苦渋の決断に至った。その交渉は屈辱的だったが、戦火に焼かれるよりはましだった。相手が板垣退助だったからよかったが、薩長勢だったら話にもならなかっただろうと、松五郎は呟いた。
「歳は悔しかっただろうな。あいつは、宗家を盛り立てることだけが、たったひとつの生き甲斐だったんだ」
「はい」
「悔しいな」
 松五郎は、床の間に置いた太刀をじっと見つめた。日光から佩いてきた大事な刀には、格別の想いがあった。
 大和守源秀国。
 近藤勇から贈られた業物である。長州征伐も日光勤番も、これが常に松五郎の傍にあった。いわば松五郎の半身であり、近藤勇の片割れのようなものだった。今となっては形見である。
 悔しいという呟きは、近藤に向けたものだろう。

 日光から戻ったばかりの松五郎は、多忙であった。
このとき、千人隊の血気盛んな者たちが、上野山に立て籠もる彰義隊に呼応するのだと気勢をあげた。
「無駄な戦さだ」
それに加担することを松五郎は制止してきた。
が、千人頭のひとり河野仲次郎通聿が煽動すると、堰を切ったように、彼らは〈八王子方〉と称して上野山をめざした。
 石坂組の若頭である鈴之助が起つと、松五郎は必死で諌めた。
「亡き先代は、このような決起を決して望みませぬ」
しかし鈴之助はこれを振切り、上野に発った。鈴之助を死なせることは出来ぬと、松五郎も慌てて後を追った。
 五月一五日。
後世、この日の戦いを上野戦争という。
それは江戸における幕府残党の、最期の断末魔に等しい戦いだった。千人隊の面子は、アームストロング砲の威力に為す術もなく、散り散りとなった。八王子へ逃れることの出来た者はいいが、退路を断たれて爆死する者、江戸市中に取り残され残党狩りに討たれる者。この戦さは、その後の凄惨こそ言語を絶する。
 松五郎は石坂鈴之助を引き摺るように、敵の目をかい潜って西へと逃れた。
二三日頃より〈八王子方〉に参加した輩がぽつぽつと帰ってきたが、多くの者が、その後の取り調べを受けることとなった。
 井上松五郎は幸いにして、上野山参加の追及を逃れることが出来た。しかし、なんと無益な戦いだったものか。
戦さの価値観は、大砲の優劣が大きく左右する。
刀は大局を変えることも出来ない。
松五郎は自分を損なわずに順応しようと努めたが、それが出来ぬ者は、何もかも巻き添えに抗おうとした。
「無益だ」
 松五郎の怒りは、矛先のないものだった。

 もうひとり、大事な男がいる。
 五月三〇日、沖田総司。植木屋平五郎宅にて、ひっそりと、この世を去った。
 黒猫を斬ろうとして死んだという逸話は創作で、実際に体力の逸した者に日本刀を降り抜く力などありはしない。
生き永らえ冬にひっそりと息絶える蜻蛉のようだった。
苦悶もなく潮が引くような最期だった。

捲土重来



 土方歳三率いる新選組は北へ向かい、会津戦争に参加した。会津藩は京都守護職を拝命してから、一貫して幕府に尽くした。そのため一身に薩長の憎しみを受けた。
 新選組にとって、会津には京で拾って貰った恩がある。たとえ孤立無援だとしても、その恩に報いるためには、決して退くことは出来なかった。
 新選組は会津戦争でも存分に働いた。
 天嶮母成峠の激闘でも、獅子奮迅に働いた。
その代わり、多くの隊士も会津で果てた。同じ会津の空の下に、かつての同志だった永倉新八もいる。新選組と異なる立場で、彼も会津への恩を尽くしたのだ。
「土方に頼みがある」
 松平容保は戦火が城下へ及ぶに至り、援軍要請を土方に命じた。
行先は、米沢だ。
これは藩士でない者を逃すための方便とも取れる、藩主・松平容保の優しさだった。土方はその心遣いに応じ、新選組を北上させることとした。
「会津は裏切らなかった。殉じて余りある大樹である。俺は残る」
 斎藤一が拒んだ。
その思いを同じくする者も頷いた。この意思を土方は尊重した。
 土方歳三の傍らには、常に市村鐵之助がいた。小姓などと云っていられぬ戦場の働きを、鐵之助は存分に示していた。土方たち新選組は、そののち仙台湾より、榎本武揚の艦隊に合流して蝦夷へと向った。
土方が死ぬのは、明治二年五月一一日。
およそ一年後のことである。

 土方は死の直前、写真と愛刀を日野の佐藤家に伝えるよう、市村鐵之助に託した。
その頃には、佐藤彦五郎一家は日野で以前の暮らしに復していた。『佐藤彦五郎日記』によれば、明治元年一一月一九日、彦五郎から彦右衛門へと改名し、役所へ届けたとある。妻・とくが、のぶと名を改めたのも、このときだろう。
 市村鐵之助が日野に辿り着いたのは、一説には明治二年七月一八日とされる。これは、佐藤彦五郎がその日誌に、市村鐵之助の名を具体的に記さなかったからである。代わりに、土方の遺品を持つ、亀太郎を名乗る者が来たと記された。亀太郎は乞食の身形であったという。状況から判断して、この亀太郎こそ市村鐵之助だろうと憶測される。
鐵之助の存在を知らされたのは、井上松五郎の家だけだった。
新徴組の沖田林太郎は、このとき庄内藩にいる。もし日野にいたら、彼にも知らされたことだろう。
 松五郎とともに佐藤家を訪れた泰助は、痩せ狼のような男をみて言葉を失った。
「テツ」
 変わり果てた、かつての同僚の姿。
思わず駆け寄った泰助は、鐵之助を抱きしめた。
「お前、云ったよな。死ぬなと云ったよな。俺もいう、よく生きていてくれた」
 鐵之助も力強くしがみつき、暫く二人は号泣した。
鐵之助が落ち着いた頃、ようやく土方歳三の遺言が語られた。土方の死は、五稜郭陥落の暫く後、既に日野へ伝えられていた。
「土方先生はこの形見を、必ず佐藤家に届けろと。箱館から横浜まで舟に乗り、政府の連中から逃れて、それで、余計な時間を」
 差し出したものは、筵に包んだ朱鞘の刀だった。
この刀には、佐藤彦右衛門も井上松五郎も、泰助も、見覚えがあった。
「歳はこれを〈之定〉と云ってたな」
 まさしく土方の愛刀、和泉守兼定。之定かどうかの鑑定はできないが、土方が所持していたことだけは、全員が知っていた。
「これをお前に託して、歳は刀に困らなかったのか?」
 佐藤彦右衛門は首を傾げた。
「先生はもう一振、兼定をお持ちでしたから」
「そうか」
 写真もあった。
フランス軍服に身を包み、疲れたような憂い顔。歯型は、土方本人のものだという。
「これを持っていけという以外に、何か」
「先生は、多くのことを仰りませんでした」
 そうだろうなと、佐藤彦右衛門は頷いた。
「蝦夷の戦いは、大変だったのだろう?」
 松五郎は日光今市で、会津へ行く新選組と接触している。その後の同行を知りたかった。会津のことも、仙台のことも、市村鐵之助は現地で刀を奮ってきた。京では人を斬らなかったが、北上の途では手を血に染めてきた。泣きながら死に逝く者に引導を渡したこともあった。
そうしなければ、自分が死ぬ。
戦場では、年齢などは関係なかった。
 淡々と口にしながらも、その端々に重さが滲む。修羅場を潜りぬけた者だけの、実感だった。
「大変だったのだな、テツ」
「言葉にするのも、難しい」
「ごめんな、途中で抜けて」
 泰助は項垂れるしかない。
「お前は局長の命令で新選組から出されたんだ。仕方ない」
「でも」
「それに、戦場では逃げ出す自由だってあったんだよ。実際、俺の兄貴は、流山でとんずらした」
「そうなのか?」
「でも、俺は逃げられなかった。新選組が好きだった」
 そこまで云いきり、碗の茶を飲み干した。
「そして、お前のように、土方先生から役目を負わされて、新選組から出された。みんなと死ぬことも、生き抜くことも、全部、許されなかった。そのときになって、あのときのお前の気持ちを分かったような気になった。辛かった、辛かったよ、泰助」
「テツ」
 明治となり新しい政府も出来、多摩地方は新選組縁者のいる地ということで、些か窮屈な場所だった。市村鐵之助が外を出歩くことは、目立ち過ぎた。
「こいつは、うちに匿おう」
市村鐵之助は暫く佐藤家に匿われた。
当時、新選組の残党を明治新政府は罪人のように扱う風潮があった。
彦右衛門としては、新選組にいた若者を世間から匿うことが、当然の措置だった。いざというときは、商いをしている関係上、丁稚で抱えたという方便が通用する。
とりあえずは、奥の座敷に鐵之助を隠すしかない。
松五郎も泰助も、素性から密偵の目に曝されるだろう。こののちは、彦右衛門が良しというまで、市村鐵之助との接触を控えることとなった。
「なに、いつかは、きっと、ほとぼりが冷めるだろうさ」
 彦右衛門の言葉に、一同は頷いた。
その後、市村鐵之助は彦右衛門に扶養された。
教育も受けた。
土方は生前、彼を
「頗る勝気、性亦怜悧」
と評し、どの小姓よりも可愛がった。
その勝気は学問に傾けると、真綿が水を吸うが如く身につけていった。佐藤彦右衛門はそれを面白がった。
市村鐵之助という若者は、生来賢い素養だったのだろう。
 鐵之助が佐藤家に滞在したのは、およそ二年ちょっとだった。



 世は明治四年となる。
 この年の四月一日、井上松五郎が〈はやり病〉で没した。あれほどの武人も、病には勝てなかった。枕元でその死を看取ったのは、長男の定治郎と次男の泰助。それに佐藤彦右衛門と妻・のぶ。その他井上家の眷属たちであった。
「とにかく松五郎だけはしっかりと送ってやらねばならねえ。定治郎も心して務めることだな」
 佐藤彦右衛門が小さく呟いた。
 軽い咳を繰り返しながら、定治郎は頷いた。
「ところで、お袋さまは?」
 彦右衛門が訊ねると
「床に伏せたままで」
 定治郎は目を伏せた。
松五郎の妻は、このとき高熱で起きあがれない状態だった。松五郎と同じ病だ。おいたわしや、佐藤彦右衛門はそう呟いて、松五郎へ視線を落とした。
「かつては剣一本で世を渡れた猛者だったのに……」
 井上松五郎という人物を、ひとかどの剣客として知らぬ者はなかった。そのくせ性格はどこかおっとりとしていて、つい心を許してしまう、そんな不思議な人格者だった。
 四九日も迎えぬ間の四月二八日、松五郎の妻が死んだ。松五郎と同じ〈はやり病〉である。
たった一ヶ月の内に、両親の喪主を行うことになった井上定治郎の心労は如何なものだったか。
周囲の心配するなか、今度は定治郎が床に伏した。同じく〈はやり病〉だ。
松五郎の葬儀の頃から〈妙な咳〉をしていると誰もが思っていたが、とうとう最悪の事態になってしまった。
五月九日、井上定治郎が僅か二十歳で、この世を去った。
忌まわしい〈はやり病〉は、このとき世の中を物凄い勢いで席巻した。その悪魔が、日野の人格者を、親子ともども死に至らしめたのだ。
残された泰助は、やるせない想いを強く噛み締めていた。
彼は若くして、井上家をひとりで継がなければならなかった。
「いつか、源三郎を迎えにいこうな」
 父はそういって笑っていた。その誓いを果たすこともなく、松五郎に先立たれた泰助は、涙も出ないほどに、気が張り詰めていた。
泰助には、姉と妹がいる。
もっとも姉・もとは、元新選組隊士・松本捨助に嫁していたから、身の振りに心配はない。妹・はなは、嫁入るにはまだ幼い。これの面倒をみると云ったのは、佐藤彦右衛門だった。
「はなは、ゆくゆく芳太郎(沖田林太郎・みつの子)の嫁にしよう。いやな、以前、林太郎とも話していたのよ。松五郎も承知していたことだ。みつもな、沖田家の嫁は井上家から欲しいと云ってたしな」
 井上一族の林太郎は、沖田総司の姉・みつの婿となり沖田家を継いだ。みつは弟・総司と異なり、身体だけは丈夫だが、子縁は続かなかった。ひとり息子の芳太郎はまだ嫁取りに早い歳だが、ゆくゆくのことを考えれば、井上家から嫁を迎えたいという林太郎の意思は、はなにとっても有難いことであった。
 庄内藩預かりだった新徴組は、維新後、新政府の賊軍措置として松ケ岡開墾を強いられていた。過酷な一般流罪に等しい措置である。このとき林太郎一家も過酷な状況下にあった。一家は翌年、有志と脱走を果たし、本所入江町へと転居した。
 泰助はぼんやりと、父母と兄の位牌をみつめていた。
人の死とは、かくも呆気なく、軽くて、残された者にだけ、重く遺る。
ひそかに弔問にきた市村鐵之助は
「俺も、国友へ帰るよ」
と告げた。
「国友に身内がいるのか?」
「兄上がいる」
「兄上って、ユ之助さんか?」
「ああ。蝦夷にいるとき、他の隊の連中が教えてくれたんだ。兄上は流山で新選組を離れて行方知れずだったけど、育った村に戻っていたんだ。嘘だと思って忘れていたけど、つい一昨日、富山の薬売りから事実だと聞いたんだ」
「そうか」
 まずは兄を頼って、新しい生き方を探すのだと、鐵之助は笑った。
「もし、困ったら」
「ん?」
「困ったときは、日野へ来いよ。ここをお前の故郷にしても、いいんだぜ」
「ああ、困ったらな、また来るよ」
「きっとだぞ、待ってるぞ」
「泰助も、しっかりとやれよ」
 これが二人の、今生の別れとなった。
鐵之助は国友へ身を落ちつけて数年後に、病で世を去った。
 市村鐵之助については、西南戦争で死んだという島田魁の親類・岸家の伝承がある。しかし、西郷隆盛に付く義理が市村鐵之助にあるとは考え難い。このことは、小島守政の記した『慎斎私言』に記され、ゆえに通説となった。やはり、市村鐵之助は病死したのだろう。
 人の死は、明治となっても変わることなく、消えゆくときは儚く呆気ない。そのような未来と別れがあることなど、このときの泰助が知る由もなかった。

 井上家の床の間には、大和守源秀國の大小が飾られている。この業物は、かつて近藤勇から井上松五郎に贈られた名刀だ。生前、松五郎が手入れを怠らなかったものだ。
 じっと見ていると、松五郎に睨まれているような気にさせられる。
刀には武士の魂が宿るというが、成る程、そういうものかも知れないと、泰助は思った。
かつて松五郎は、これを腰に、日光勤番にも長州征伐にも赴いた。
「刀は武士の魂というが、まさにこの大小は、父上の魂だった」
 泰助は遠い目で、独り言をつぶやいた。
 明治新時代で、刀を抜くことは皆無だったが、泰助は手入れを怠らなかった。このときだけは、父と語らう大切なひとときだった。
 井上泰助のその後の人生は、市井にありながらも、侍気質だけは保持された。
時代遅れとも、時代錯誤とも、人はそれを陰で笑った。
それは、人の戯言だ。
泰助にとって、この気質こそ、父・松五郎が望んだ武士の精神(こころ)なのだと、信じて疑うことはなかった。
日野は明治になると、暮らし向きが大きく変わった。
後年、交通手段も徒歩から陸蒸気へと変わると、日野で作られた煉瓦が甲武鉄道の線路を支えた。山口麦酒が作られたのも日野だ。文明開化を時代に応じて取り入れていく日野の柔軟性は、反骨の裏返しかも知れない。
が、とにもかくにも、これは後年の話である。
 
 成人した井上泰助は、南平土方家より妻を迎えた。
妻の名は〈とめ〉という。
平凡であるが聡明で、何事にも控えめな、明治の女と呼ぶのが相応しい伴侶だった。
 二人の間には五人の子が生まれた。
 泰助は、跡取り息子・覚太郎の嫁にきた〈けい〉がお気に入りだった。何かと声を掛け、色々と昔話を語り残した。
今日伝えられる井上泰助のことは、このけいの口による。
「いつか京大坂の方へ行くことがあれば、源三郎叔父さんの御参をしてこい」
 このときしっかりと、欣浄寺前の田圃に埋めたのだと、泰助は伝えたのだ。同じ名前の欣浄寺が井上家の面前にあるがため、長くこの話は信じられてこなかった。鳥羽伏見の地に欣浄寺跡の名が見つけられたのは、ごく最近と云っても過言ではない。

 井上泰助が世を去るのは、昭和二年(一九二七)のことである。
その最期の瞬間まで、生涯侍気質であったと、子孫はいまに語り継いでいる。
 さて。
これまで綴った井上泰助の記は、あくまでも私本小説である。『佐藤彦五郎日記』によれば、井上泰助の上洛は、慶応三年九月に土方歳三・井上源三郎が東下したときなのだと解釈される。
その根拠は次の通りだ。

慶應三年卯十月十一日登 新撰組土方歳三御家族・門人共上下卅壱人 休 九貫三百文
(品川町史)

 この記述は釜屋宿泊のものであり、文中にある〈御家族〉は子供連れともとれる。これが泰助だという解釈が可能だ。
そうなると、慶応三年に入隊した市村鐵之助は、新選組の先輩になる。彼から局内の規律や行動について指導されたのだろうか。少なくとも、両者は事務的に、粛々と隊務を努めたことだろう。
その親密度が希薄か否かも定かでない。
鐵之助が五稜郭より彦五郎家に辿り着いたとき、泰助はどのような態度に及んだことだろうか。

 繰り返すが、本編は私本小説にすぎない。

幕末維新期の小説は、常に生乾きの感情が残る素材として慎重を期する。
これまでのことは迂闊な手法ではあるが、井上泰助という人物の、煌く少年期をかくの如く描いた作品として、一種読み物の類として、何卒御留置頂きたい。

 すべては、維新瓦解の風が知る。
                               了



【参考史料】

◇「新選組日誌 上・下 
            菊池 明、伊東成郎、山村竜也・編                     
                    新人物往来社・刊                     
◇「八王子千人同心井上松五郎 文久三年御上洛御供旅日記」
日野の古文書を読む会研究部会・解読
                           編集                     
井上源三郎資料館・発行

◇「日野宿叢書 佐藤彦五郎日記 一・二」
日野市・発行

◇「日野市史 通史編二(下)」
日野市教育委員会・発行

◇「八王子千人同心史 通史編」
八王子市教育委員会・発行

◇「八王子千人同心史 資料編」
八王子市教育委員会・発行

◇「平成十九年度特別図録
  八王子の天然理心流―受け継がれた剣術・柔術・棒術―」
八王子市郷土資料館・編集
八王子市教育委員会・発行


【参考文献・資料】

◇「井上松五郎源三郎兄弟の事跡」     谷 春雄・編著
日野市ふるさと博物館・協力
井上源三郎資料館・発行

◇「井上源三郎資料館HP」
       http://genzaburo.web.fc2.com//index.html

◇「新・歴史群像シリーズM 幕末諸隊録」
                    学習研究社・刊

◇「新選組余話」             小島政孝・著
小島博物館・発行

◇「武術・天然理心流 上 
新選組の源流を訪ねて」  小島政孝・著
小島博物館・発行

◇「ブックレット 千人のさむらいたち〜八王子千人同心〜」
村上 直・監修
八王子市郷土資料館・編集
八王子市教育委員会・発行

◇「時空旅人ベストシリーズ」
  新選組 その始まりと終わり 幕末に忠義を尽くした男たち」
                     三栄書房・刊




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